2012/12/02

日々是好日

先日、「読書のすすめ」という本屋さんの店長、清水克衛さんの以下のブログ記事を読んで本を注文しました。
清水克衛の日々是好日「構え」

購入した本は、記事の中で紹介のある、森信三(著)『一生の羅針盤』です。

昨日、手元に届きました。

恥ずかしながら、森信三先生のことは最近になって知りました。

初めて名前を聞いたのは、『心徒塾』に参加してからなので、ここ1、2年のこと。

それまでにも聞いたことがあるのかもしれませんが、記憶にはありません。


最近になって森信三先生のことを耳にして、そうなってくると本屋さんへ行くと森信三先生の名前が書かれた本が目に飛び込んで来たり、と。

関心事のひとつになっていました。


そんな中に、冒頭のブログ記事。


まずは、「構え」という言葉に魅かれます。

似たような意味の言葉として「姿勢」とか「格好」という言葉がありますが、「構え」というと、何かしらに集中して待ち受けているような感じがして好きです。


そして、記事中の「一般書店には置かれていない本」。

「限定品」とかに弱いのかな(^-^;)。


値段も手ごろなので、森信三さんのことを知る最初の一歩となるか、と思い、購入。


で、手元に届いたのですが、実はまだ読んでおりません。

が、購入してよかったと思いました。


その理由は、この本には特別付録として森信三先生講話「肉声CD版」が付いていたからです。

CDの内容は、卒業を前にした中学生に向けた講話で、森信三先生73歳のときの肉声とのこと。

話をしている相手の中学生に向けた、力強く、芯が通った、それでいてやさしい感じの話し方。

これはいい。

既に4、5回聞いています。


内容は…耳が痛い(> <)

「人間として最低守らねばならぬ具体的なこと」として次の3つが挙げられています。
  1. 人に出会ったら必ず自分の方から挨拶をすること
  2. 親に呼ばれたら必ず「はい」ということ
  3. 履物をうちで必ず揃えて脱げること
できているか、できていないか、と問われれば、できていません…。

禅語の「照顧脚下」あるいは「看脚下」という言葉を思い出しました。

2012/11/19

わもんな言葉18-在り方

坂本賢三『「分ける」こと「わかる」こと』に「通人」についての記述がありました。

「通人」とは、もともとは遊里の言葉だったようで、今ではあまり聞くことはない言葉ですが、「事情通」とか、「通なはからい」とかで使われる「通」と同じ意味で、「通な人」のことです。

少し長くなりますが、以下引用します。
 情については、「情がわかる」といういい方をしない。そのような語法があっても理解はできるが、「事情がよくわかっている」とかのばあいを除いて、つまり対象化できる場合を除いては、「わかる」とはいわない。それは「通じる」ものである。事情のばあいでも、「事情がわかっている」よりも「事情に通じている」のほうが日本語らしい表現である。「通じる」というのは、「わかる」というのに近いが同じではない。「英語がわかる」というのと「英語に通じている」というのとでは、相当にニュアンスが違う。「通訳」とか「通辞」は、このニュアンスをうまく表わしているいい言葉である。
分析して理屈がわかっていて、原理からの演繹ができても、「通じている」とはいえない。細かいニュアンスや裏の意味や雰囲気まで知っているのでなくては、「通じている」とはいえない。ヘーゲルをもじっていえば、「わかっているからといって通じているとはいえない」のである。しかも頭でわかるのではなくて、心でわかる(あえてこの言葉を使うが、本当は心が通じ合うというべきであろう)のでなくてはならない。そのようなわかり方である。いいかえれば、その世界の言葉が全面的にわかることである。わかるは訳なのだ。
たしかに「事情がわかっている」よりも「事情に通じている」という方が、より深く理解している表現です。

その世界の言葉が全面的にわかっている人が「通人」。

「わかる」は「分ける」ことからはじまると考えると、分けた後につなげて道をつけているのが「通じている」という状態なのではないかと思います。


これは、「聞く」ことにも当てはまるのではないか、と感じました。

「相手がわかる」聞き方より、「相手に通じる」聞き方。

「わもん」での聞き方に「通じ」ます。


「わもん」での聞き方の説明で、よく「地下水脈でつながっている」という言葉を使うことがあります。

「つながっている」と「通じている」もつながります。


先の『「分ける」こと「わかる」こと』の引用には、続きがあります。
 ここまでくれば、じつは、もう「わかり方」などといったものではなくて、「ふるまい方」のできるのが通人であり、わけしりなのである。「わきまえ」もそうである。原意は「分ける」かも知れないが、「わきまえている」といえば、わかっているとか知っているというだけでなくて、「ふるまいかた」についていわれていると考えたほうがいいのである。
「わかり方」ではなく「ふるまい方」ができるのが「通人」。

相手の話を聞くとき、「わかり方」「聞き方」ができるだけでなく、その「在り方」でいられる人が、わもん通な人です。



シューマンのマーケティング

クラシック音楽はほとんど聴きません。

シューマンについても、名前は知っていますが、どのような曲を作った人なのかは知りません。

しかし、奥泉光さんの『シューマンの指』を読んで、聴いてみたくなりました。


『シューマンの指』はそのタイトルからもわかるように、ドイツの作曲家ロベルト・シューマンを題材としたミステリです。

シューマンの人物像よりは、シューマンの音楽が中心として書かれています。

シューマンの音楽を知らないのでその良し悪しはわかりませんが、『シューマンの指』を読むと、シューマンの音楽をより深く知ることができるのではないかと思いました。


中でも特に印象に残っているのは、登場人物である永嶺修人の台詞です。
「シューマンは、変ないい方だけど、彼自身が一つの楽器なんだ。分かるかな? 音楽は、彼の軀というか、意識とか心とか魂なんかもぜんぶ含んだ、シューマンという人のなかで鳴っている。だから、彼がピアノを弾いたとしても、それはシューマンのなかで鳴っている音楽の、ほんの一部分でしかないんだ」

おそらくは、音楽に限らず、小説とか、絵画とか、映画とか、何かを表現しているもの、表現しようとしているもの全てに当てはまることではないかと思います。

小説など、いわゆる作品といわれるものでなくとも、ちょっとしたしぐさや何気なく言った言葉は、その人の人物像の一部分です。

それらに「奥行き」が感じられるかどうか。

シューマンがピアノを弾いているのを聴いたとして、シューマンのなかで鳴っている音楽が聴けるかどうか。


表現する人の表現力もさることながら、その表現を見る人の読解力。

それらは技巧として現れるかもしれませんし、現れないかもしれません。


私は、文芸・音楽・芸術と呼ばれるものに関心はあるものの、まだまだ読解力不足。


では、読解力を高めるにはどうすればいいか? と考えてみると、私の中から出てきた答えは、良いものに触れること。


そう考えると、「古典」といわれるものは、長い間多くの人の目や耳にさらされ残っているものなので、まずはそこから、という気になります。


で、善は急げ、というわけで(?)、シューマンのCDを購入してみようとAmazonで検索してみたら、こんなものがありました。



術中にはまった気がしますが、購入を決めました(^-^;)


2012/11/11

切磋琢磨

中国の古典『大学』より「切磋琢磨」についての引用です。
詩に云う、「彼の淇の澳を瞻るに、菉(緑)竹猗々たり。有斐しき君子は、切るが如く磋くが如く、琢つが如く磨るが如し。瑟たり僴たり、赫たり喧たり。有斐しき君子は、終に諠るべからず」と。切るが如く磋くが如しとは、学ぶを道うなり。琢つが如く磨るが如しとは、自ら脩むるなり。瑟たり僴たりとは、恂慄なるなり。赫たり喧たりとは、威儀あるなり。有斐しき君子は、終に諠るべからずとは、盛徳至善にして、民の忘るる能わざるを道うなり。

『詩経』の衛風淇奥編の武公の徳をほめた歌の一節を引用し、解釈をしています。

『詩経』には「あの淇の川のくまを見れば、緑の竹が美しく茂っている。〔その竹のようにすばらしい〕才能ゆたかな君子は、〔まるで細工師が〕切りこんだうえにやすりをかけ、たたいたうえにすり磨くように、〔どこまでも〕修養をする。慎しみ深くみやびやかで、はれやかに輝かしい。ゆたかな才能の君子は、いつまでも忘れられない」とうたわれている。「切りこんだうえにやすりをかけるよう」というのは、人について学ぶことを言ったのである。「たたいたうえにすり磨くよう」というのは、自ら反省して修養することである。「慎しみ深くみやびやか」というのは、内に省みて恐れかしこむことである。「はれやかに輝かしい」というのは、気高く礼儀正しいありさまである。「ゆたかな才能の君子は、いつまでも忘れられない」というのは、盛んな徳をそなえて最高の善におちつく人は、民衆にとって忘れることができないというのである。


「切磋琢磨」とは、国語辞典では次のように書いてあります。
①知識や徳をみがくこと。
②友だちなどがおたがいにはげましあって努力し、向上すること。
『三省堂国語辞典 第五版』より

「知識や徳をみがくこと」という意味と、「(友だちなどが)おたがいにはげましあって努力し、向上すること」という意味があります。

この2つ目の意味はどこから来たのでしょうか?


何の傍証もなく、私見ではありますが、『論語』での孔子と子貢のやりとり(学而第一・15「子貢曰、貧而無諂、~」)から付加された意味のように思います。

子貢の問いが孔子を引き立たせ、孔子の応えが子貢に気付きを与える。

「切磋琢磨」とはこのことをいうのですね。


2012/11/06

フルマラソン感想

11月4日(日)に「第16回大阪・淀川市民マラソン」に参加しました。

前回はハーフマラソンに参加し、今回はフルマラソンに参加です。


フルマラソンは2回目の挑戦で、1回目の挑戦ではリタイア…。

リベンジです。


結果は、「一応」完走。

「一応」と書いたのは、途中歩いてしまい、全て走ったとは言えないからです…。

しかし、結果には納得しております。


昨年1月から少しずつ走りはじめ、大会にも少しずつエントリーしてきました。

最初は10km、次に10マイル(約16km)と大会に出場し、順調に走りきることができました。

そして昨年の「第15回大阪・淀川市民マラソン」がハーフマラソン初出場で初完走です。


しかし、その時期から、走る度に膝が痛くなるようになってきました。

昨年「大阪・淀川市民マラソン」に参加したときの記事(「『大阪・淀川市民マラソン大会』参加」参照)でも、膝の痛みのことが書いてあります。


今年3月に、初のフルマラソンに挑戦したのですが、膝の痛みでリタイア(「フルマラソン挑戦」参照)。

また、その後のハーフマラソンでも膝の痛みでリタイア…(「『第2回淀川国際ハーフマラソン』参加」参照)。

しばらく大会に出るのは控えていました。

普段の練習のときならば、痛くなりそうになったときに走るのを止めるのですが、大会途中で痛くなった場合、足を引きずらなければならなくなるまで我慢して走ろうとするので、悪化してしまうのではないかと思ったからです。

(充分、悪化していたのかもしれませんが…)


しかし、今回の2回目のフルマラソンに向けてしっかりと調整ができていた、というわけではありません。

10月初旬に風邪を引いてしまいしばらく走らず、また仕事も忙しくなってきたためサボり気味になってしまい、10月中に走ったのは友人と走った1回のみ。

友人と一緒に走ったのは10月中旬だったのですが、7kmほど走ったところで膝の痛み。

その後、本番を迎え、不安要素が大きい中、参加しました。


結果的には、膝の痛みは出ませんでした。

しかし、20kmを超えたあたりでふくらはぎや太ももの筋肉が張ってきて、そのうち力も入れづらくなり、歩いては走り、歩いては走り(と、言葉では書きますが、実際は「歩いて歩いて歩いて走り」くらいです)を繰り返し、何とかゴールです。


なので、胸を張って「完走した!」とは言えませんが、膝の痛みが出ず、歩きながらもゴールできたことはうれしく思います。

歩いてしまったのは、自分の体力・筋力不足によるもので、これが今の実力であると思えるような内容でしたので納得しています。


次なる目標は、「歩かずに完走」です。

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