テイク
ソレでも
昔者、荘周、夢に胡蝶と為る。荘子(荘周)が蝶になった夢の話だが、荘子が蝶になった夢を見ているのか、それとも蝶が荘周となった夢を見ているのか、という話である。
栩栩然として胡蝶なり。
自ら喩みて志に適うか、周なることを知らざるなり。
俄然として覚むれば、則ち蘧蘧然として周なり。
知らず、周の夢に胡蝶と為るか、胡蝶の夢に周と為るか。
しかしともかくこんなふうに、年がら年中、辞書のなかをさまよいながら、血そめつき、気さわぎ、夜迷い、単于憑き、殺め好き、諱付き、鉈ばた突き、怖の色づき、切っ裂き好き、泣き伏し暮れつき、首刎ね好き、嚇し忘れず……。ヤナセ語訳『フィネガンズ・ウェイク』は読んだ(「読んだ」といっても字面を追った程度)が、『フィネガンズ・ウェイク』の原文は読んだことがなく、《血そめつき、気さわぎ、夜迷い、単于憑き…》の原文はどんなものだろうと思っていたら、『辞書はジョイスフル』の別の箇所に記載されていた。
ありゃりゃりゃ、なんじゃ、これ!?
わかりました。『フィネガンズ・ウェイクⅢ・Ⅳ』の訳語が飛び込んできたのです。
順に、かすみそめつき(霞初月)、きさらぎ(如月)、やよひ(弥生)、うづき(卯月)、あやめづき(菖蒲月)、とこなつづき(常夏月)、たなばたづき(七夕月)、そのいろつき(其色月)、きくさきづき(菊開月)、しぐれづき(時雨月)、ねづき(子月)、しはす(師走)のジョイス語ヤナセ語変装。
なにしろ上のような訳語をつくるために七年半、年がら年中、辞書のなかをさまよっていたのだから、どうやら本書は、『フィネガンズ・ウェイク』翻訳作業と辞書のことから書き始めるのがよさそうだ。
今度は、『フィネガンズ・ウェイク』から、やさしい原文を引こう。こういうふうに形容詞が並ぶところがある。《bloody gloomy hideous fearful…》をふつうに訳すと「血まみれの、陰鬱な、見るもぞっとする、怖い…」となるのだが、「January February March April…が、ひびいている」ので、柳瀬は《血そめつき、気さわぎ、夜迷い、単于憑き…》と訳したということである。よくもまあこんなところまで考えるなあと、いい意味で感心する。
bloody gloomy hideous fearful furious alarming terrible mournful sorrowful frightful appallingなんのことはない、まともな英語が十一個。数十か国語どころか、大学受験生程度の英語のボキャブラリーがあれば、読むことは読める。
順に、血まみれの、陰鬱な、見るもぞっとする、怖い、怒り狂った、ぎくりとさせる、おっそろしい、哀悼の、悲痛の、おっかない、度肝を抜くような。
ところが、これもまた、このまっとうな英語もまた、ジョイス語のひとつの姿なのである。
つぎの英語を見ていただく。
bloody gloomy hideous fearful furious alarming terrible horrible mournful sorrowful frightful appallingこれは、かのクークラックスクラン、3K団が、順に、一月、二月、三月……につける形容詞だ。
ジョイスの原文にはhorribleがないが、しかしここで故意に十一個にする理由は考えられず、おそらくはジョイスの書き落としと思われる。
つまり、ジョイスの《bloody gloomy hideous fearful…》という原文の裏には、January February March April…が、ひびいているわけだ。
七魘が去った、暗陰鬱殪毆悍釁、もはや十二憑きはない、血そめつき、気さわぎ、夜迷い、単于憑き、殺め好き、諱付き、鉈ばた突き、怖の色づき、切っ裂き好き、泣き伏し暮れつき、首刎ね好き、嚇し忘れず。「七魘」には「しちよう」とルビがふってある。ここでの「魘」の漢字は小さくて見にくいだろうが、「厭」の下に「鬼」と書いた漢字で、「おさえつけられた感じで、うなされる。恐ろしい夢を見ておびえる」という意味の漢字である。「七魘」はそのルビから「七曜」を思い起こさせ、つぎの「暗陰鬱殪毆悍釁」には、「月火水木金土日」のひびきが感じられる。「暗陰鬱殪毆悍釁」には「あんいんうつえいおうかんきん」とルビが打たれており、各漢字の第1音を並べると「あいうえおかき」となるような、そして7つの「魘」となるような漢字を選んだのであろう。同様に「十二憑き」は「十二月」で、「血そめつき、気さわぎ、夜迷い、単于憑き…」と続いている。
平和、まったき平和。
【撒】ワイルドの『サロメ』においてサロメがヘロデ王の前で踊ったのは、「七つのヴェールの踊り」ということは書かれている。どのような踊りであるのかは書かれていないが、ヴェールを脱ぎながらの踊りであると言われている。「羅」には「うすぎぬ」という意味があり、「撒」は「撒き散らす」ことであるので、ヴェールをとって投げ捨てるような情景を思い描くこともできなくはないが、「米」がよくわからなかった。今となっては意味はなさそうであることがわかったが、「撒羅米」の漢字から、アメノウズメやウケモチノカミを思い描いた。ワイルドの『サロメ』では、最後にサロメは殺される。殺されたときにウケモチノカミが穀物を生み出したように、サロメが何か生み出したのではないかと想像した。サロメが殺されるのは、ワイルドの創作である。だから、「撒羅米」という当て字にした理由を知ることで、ワイルドが描いていたサロメ像、ワイルドが『サロメ』を書いた意図のようなものにつながるのではないかと思ったのだ。
①まく、まき散らす。
②(俗語)「撒手」とは、手を振りちぎること。また、見切りをつけてほったらかすこと。
【羅】
①あみ。目のつらなるあみ。
②鳥をあみで捕らえる。
③つらねる。つらなる。
④うすもの。目のすいたうすい絹織物。うすぎぬ。
【米】
①穀物の小さなつぶ。コメ・アワ・キビなどにいい、また、菱や、ハスの実などにもいう。
②こめ。よね。いね。イネの実のもみがらを取り去った粒。
③小さいつぶ状のもの。
(他、メートルやアメリカなどの意味も記載されていた)
女主人公は、風にも得耐ふまじき娉婷たる美女。これ原本テキストを正確に讀みて解釋せる撒羅米の姿態也(近代映畫によりて印象さるるが如き太りじしの女人たるべからず)。従来の訳では「〈運命の女〉としてのサロメ像」「〈新しい女〉としてのサロメ像」の印象が強いが、平野訳は「〈少女〉としてのサロメ像」を言葉に表したものである。ただ従来の訳者も「〈少女〉としてのサロメ像」を読み取ってはいた。このような文脈のなかで引用された文章である。
日夏による「院曲撒羅米小引」が巻頭に置かれ、そのうちのふたつは次のような文言である。どうやら、中国語の聖書から採ったようである。「美姫撒羅米ノ東方趣味ニ準ヘムガタメノミ」というのは、ワイルドの『サロメ』にオリエンタリズムの傾向があることを言っているのだと思う。
一、曲中人物ノ宛字ハ漢訳聖書上海美華書館同治四年本中ノ文字ヲ多ク採リ用ヒタリ。美姫撒羅米ノ東方趣味ニ準ヘムガタメノミ。
一、コノ訳書ヲモテ院曲撒羅米ノワガ定本タラシム。コレ訳詩大鴉ト共ニ拙訳詩曲類中何トナクタダ最モ自ラ愛玩暗喜スルモノ也。
また、婦人たちも遠くから見守っていた。その中には、マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、そしてサロメがいた。Wikisourceで中国語版の聖書の該当の箇所をみると、「撒羅米」の漢字が見つかった。中国語では「マルコ」は「馬可」と書くようだ。