第一、何を書こうかと毎回悩む。訴えたい主義主張でもあれば書きやすいのかもしれないが、特に何かを伝えたいということは思いつかない。何かヒントはないかと手近な本に手を伸ばす。おもしろくて読みふける。結局何も書かずに時間が経つ。
そんななかで本棚を眺めるといまの状態そのものずばりのタイトルが本棚に並んでいた。近藤勝重『書くことが思いつかない人のための文章教室』である。以前にも読んだものだが、あまり内容を覚えていない。あらためて読み直した。
そこに、「「思う」ことより「思い出す」こと」という小見出しがあった。書くことが浮かんでこないときのひとつの方法である。
「思う」は「ぼくはこう思う」という言い方があるとおり、胸の中での一つの判断にすぎません。一方、「思い出す」は「夏がくれば思い出す」という「夏の思い出」の歌詞じゃありませんが、主として記憶にある体験を頭に思い浮かべることです。そうしてテーマに合う事柄を思い出せば、それとかかわるデータもいもづる式にいろいろ浮かんできたりするものです。本を読むことが多いので、その感想をブログに書こうとすることもあるが、書こうとすると粗筋や要約となったり、説明だけで終わってしまったり、あとあとブログを読み返してみると自分の感想が書かれていなかったということがある。感想が書かれていても「おもしろかった」とか、その程度であることもしばしば。
「思う」より「思い出す」こと、というのは、僕にとってはいい方法かもしれない。文章の書き方の本には「自分の経験体験はその人独自のことだから独自の内容となるので、それを他人にわかるように書いたものがいい文章である」というようなことがよく書かれている。「思う」ことを書こうとすると、一般的なことだったり、いろいろな考え方などを列挙したりして、あまり自分のことを書くことがない。独自性もおもしろみもない。しかし「思い出す」のであれば、すらすらと書くことはまだできないけれど、少なくとも書く糸口を見つけることができそうな気がする。
「思うより、思い出すことか」とあらためて納得したが、以前に読んだときにも同様に「そうか、なるほど」と思っていたことを思い出しながら読んでいた。なので再読したときの感想は「なんで自分が大事と思ったことを忘れていたのだろう」というのが正直なところである。読んだことは覚えている。納得したことも覚えている。しかし身につけてはいなかった。
ふと小林秀雄の言葉を思い出した。
「思い出さなければいけないのだろう」
さて何に書かれていたのだろうかと、調べてみると「無常ということ」のなかでの言葉であった。
思い出となれば、みんな美しく見えるとよく言うが、その意味をみんなが間違えている。僕等が過去を飾り勝ちなのではない。過去の方で僕等に余計な思いをさせないだけなのである。思い出が、僕等を一種の動物である事から救うのだ。記憶するだけではいけないのだろう。思い出さなくてはいけないのだろう。読んだことは覚えていて、納得したことも覚えているが、身についていたとは言えない。しかし、記憶の片隅には残っていて、一応糸口だけは思い出すことはできた。
0 件のコメント:
コメントを投稿