2015/02/18

「~しなければならない」から抜け出す方法

勉強しなければならない。
本を読まねばならない。
時間を有効に使わなければならない。

「~しなければならない」という言葉を聞くことがよくあります。
そして、ときにはその「~しなければならない」に縛られて、窮屈な思いを抱くこともあります。

ここでは、その「~しなければならない」という言葉から抜け出す方法のひとつを提案してみたいと思います。

「~しなければならない」という言葉は、省略されているように感じます。
「~しなければならない」を分解すると、「~しなければ、成らない」だと思います。
○○しなければ、成果がでないという意味です。

ならば成果は何か? 
「~しなければならない」というときには、成果・目的が隠されています。
なので、その成果・目的に目を向けようというのがここでの提案です。

たとえば、「勉強しなければならない」ならば、なぜ勉強をしなければならないのか、ということです。
「勉強しなければならない」ならば、「勉強しなければ、何にならない」のか?
それは、「勉強しなければ立派な大人になれない」なのかもしれません。
ならば、「立派な大人」とはどういう大人なのか、そしてどのような大人になりたいのか。
このように考えてみるのです。

このように考えると、立派な大人になるという目的があり、勉強するというのはひとつの手段となります。
勉強するという方法以外にも、立派な大人になることができる方法があるかもしれないという視点が生まれます。

「~しなければならない」というときの「~(する)」はひとつの手段です。
手段ならばほかにもあるかもしれません。

ひょっとすると、「~しなければならない」というそれが一番いい手段の可能性もあります。
唯一の手段である可能性もあります。
しかし、それを選択するかどうかを決めるのは自分です。
そしてその選択の基準も自分自身の中にあると思います。

「~しなければならない(have to~)」から「~したい(want to~)」に変わるきっかけとして、このような方法を考えてみました。

2015/02/17

文化の文化

ふとした思いつきから、「文化」の語源を調べてみました。

調べたといっても、WEB上で検索して、サイトを読みまわったというだけです。

WEBで検索した結果は、
  • 「文明開化」の略である
  • 「文治教化」の略である
の2説がありました。

どちらが正しいのかはわかりませんが、どちらかというと「文治教化」の略の方がふさわしいように思います。


「文明開化」というのは語源が結構はっきりしているようで、福澤諭吉が『文明論之概略』(1875年、明治8年)でcivilizationの訳語として使ったのが始まりだとされています。

現代では、civilizationと聞くと、訳語として「文明」という語が当てられるのが多いですね。

一方、「文化」という訳語が当てられるのは、cultureです。

おそらくは、civilizationもcultureも文明開化の時期、すなわち開国後~明治時代初期に外国語として入ってきたと思います。

そこで、civilizationには「文明開化」を当てて、cultureに文明開化を略した「文化」を当てるのには何となく違和感があります。

もちろんcivilizationには、今日でいう「文化」というような意味も含まれているので、「文明開化→文化」という流れもわからなくはないですが、もしそうであるならばcivilizationの訳語に「文明」「文化」の両方を当てて、cultureには別の訳語を当てるのではないかと思います。


「文治教化」というのは、「刑罰や威力ではなく学問の力で教え導く」という漢語です。

「文治教化」の略として「文化」。

中国の古典『説苑』に「文化して改めざれば、しかるのち誅を加う」という言葉が載っているようです(『説苑』は未確認)。

「武化」の対義語としての「文化」とのこと。

「文武両道」という言葉もありますね。

この「文化」という漢語が日本に伝わり、cultureの訳語となったという方が、流れとしてはふさわしく思います。


また、江戸時代には「文化」という元号があります。

「文化」の後は「文政」と続き、日本史の教科書では、文化・文政時代の町民文化は「化政文化」と称されています。

文化時代は1804年(文化元年)~1818年(文化15年)までです。

当然、明治時代よりも前に「文化」という語はあった、ということになります。


そのため、ここでは、「文化」というのは「文治教化」の略だということで進めていきます。


「文治教化」というのは、先にも書いたように「刑罰や威力ではなく学問の力で教え導く」という意味です。

しかし、現在「文化」というときには、このような意味を思い浮かべることはありません。

Wikipediaの「文化」の項には、「総じていうと人間が社会の成員として獲得する振る舞いの複合された総体のことである」と書いています。

「文治教化」での意味は、何となくトップダウンのような雰囲気がありますが、「文化」という場合は、ボトムアップのようなイメージです。

英語のcultureの訳語になったからそうなったのかもしれません。


しかし、ちょっとひねくれた考え方かもしれませんが、江戸時代の化政文化のイメージがあったのではないか、とも思えます。

もちろん「化政文化」というのは後々に付けた名称だと思いますが、「化政文化」は江戸を中心として町人・庶民から栄えた文化です。

「化政文化」の前には、上方を中心にして「元禄文化」と呼ばれる文化があり、こちらも町人・庶民から栄えています。

「元禄文化」「化政文化」という名称がいつ頃どのように付けられたのかは知りませんが、cultureの訳語を考えていた人が「江戸の文化時代のようなものがcultureだと思う」などと考えていたのではないか、というような想像をしています。


現在の視点から考えると、「文」という文字には「学問」の意味の他に、「模様、紋様」のような意味もある(「文」を「あや」と読めばわかりやすい)ので、「文化」というのは、埋もれていた生活習慣とか価値観、パターンが現れてきた、変化してきたものと考えるのが普通だとは思いますが。

2015/02/08

ピタゴラスの定理

阿刀田高さんの『アイデアを捜せ』という本を読んでいると、次の文章に出くわした。
ありていに言えば、このアイデアはまことにすばらしいしろものだが、小説化が極端にむつかしい。ピタゴラスの定理をもとに小説を創ってみろ、と言われるようなものである。
この文章を読んだとき、阿刀田さんの表現を借りて言うと、私の「猫の耳が立った」。

――ピタゴラスの定理をもとに小説を創ってみるとおもしろいかもしれない。

小説とは言えないまでも、ブログ記事を書くことくらいならばできるかもしれない。

そう思って書きはじめた。
*****
「ピタゴラスの定理」というのは、直角三角形の性質を表す等式で、斜辺の長さの2乗が、残り2辺の長さをそれぞれ2乗して、それさを足し合わせたものに等しいという等式だ。

斜辺の長さをc、残り2辺の長さをそれぞれa、bとすると、
a2 + b2 = c2
と表すことができる。

別名「三平方の定理」ともいう。

話によると、ピタゴラスが発見したわけではないようだが、なぜか「ピタゴラスの定理」と呼ばれている。


古代ギリシアの数学者・哲学者のピタゴラスを中心としたピタゴラス教団では、線は点を有限個あつめたものだという認識があり、無理数の存在を認めていなかった。

しかし、ピタゴラスの定理が発見されると、どうしても無理数が存在するように思えてくる。

一辺の長さが1である正方形の対角線の長さは、現代ならば√2であると表現することができるが、無理数を認めていなければ、対角線の長さを表現できない。

ピタゴラスの定理が発見されたことで、ピタゴラス教団は無理数と向き合わなければならなかった。

というよりは、排除しようとしたといった方がいいかもしれない。

一説によると、無理数の存在を否定するあまりに、無理数についての口外を避けるため仲間を溺死させたという話がある。
*****
ここまで書いたところで、仲間に読んでもらった。

ブログ記事になるだろうか、と。

仲間は一言、「無理があるな」と言った。

ピタゴラスの定理でブログを書いたことで、私は無理と向き合わなければならなかった。

というよりは、排除しようとしたといった方がいいかもしれない。

一説によると、「無理」と否定されるあまりに、仲間を溺死させたという話がある。

(念のため、フィクションです。)

アイデアを捜せ (文春文庫)
アイデアを捜せ (文春文庫)

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