2013/06/02

わもんな言葉42-玄(えん)

以前に、わもんな言葉で「玄」について書きました(「わもんな言葉35-玄」参照)が、その時は読み方が決まっていませんでした。

そして最近、「玄」の読み方が決まりました。

「玄」と書いて「えん」と読む、とのこと。


さて、なぜ「えん」となったのか。

理由は…知りません(^-^;)


推測や言葉遊びも交えながら、紐解いてみます。


普通に読むならば、「玄」は「げん」です。

それが「えん」になるということは…「G」がなくなっている。

「げん(gen)」から子音の「g」をとって、「えん(en)」です。


「G」から思い起こすものといえば「重力」。

重力(gravity)の頭文字をとって、「G」といえば「重力」とか「重力加速度」を意味します。

その「G」がなくなったということは、重力がなくなった「無重力」状態。


また「g」は「グラム」という重さの単位でもあります。

重さがなくなり、飛び立ったことを表しているのかもしれません。


はたまた「G」がなくなった…「自我」なくなった…「離我」に通じるのかもしれません。


言葉遊びはともかく、やぶちゃんは「玄」について、「私が『玄』になれるは、亡くなった後かもしれません」と言います。

以前の「わもんな言葉35-玄」でも書いたように、「玄」という漢字には、「ほの暗くてよく見えない」「奥深くて暗い」という意味があります。

「玄徳」というのが、「木にたとえると根に相当するところの徳」ならば、「玄」は木にたとえると根に相当するもの。


重力に縛られず、肉体にも縛られず、人の心に種を蒔き、根を張り、その人の中で生き続ける。

そんなわもんな人が「玄」なのかな、と想像します。


吉田松陰は、『留魂録』の中で、以下の言葉を遺しています。
義卿三十、四時已に備はる、亦秀で亦実る、其の秕たると其の粟たると吾が知る所に非ず。若し同志の士其の微衷を憐み継紹の人あらば、乃ち後来の種子未だ絶えず、自ら禾稼の有年に恥ざるなり。

人間の一生を四季に例え、松陰は自分の死を間近に控え、自分自身にも四季があり花咲き実をつけたはずだと述べます。

その実は籾殻なのか、それとも粟なのかは自分の知る所ではないが、この志を受け継ぐ人があれば、それは蒔かれた種子が絶えず、収穫のあった年に恥じないであろう、と。


私自身も、歴史に名を残したいとまでは思いませんが、せめて身近な人の心には残っていたいと思っています。


吉田松陰 留魂録 (全訳注) (講談社学術文庫)
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