そして最近、「玄」の読み方が決まりました。
「玄」と書いて「えん」と読む、とのこと。
ヤブログ: 読み方玄( えん)に決めました! yabuchan.jp/yablog/?p=19225
— わもん聞く匠 薮原秀樹 通称:やぶちゃんさん (@wamonyabuchan) 2013年5月26日
さて、なぜ「えん」となったのか。
理由は…知りません(^-^;)
推測や言葉遊びも交えながら、紐解いてみます。
普通に読むならば、「玄」は「げん」です。
それが「えん」になるということは…「G」がなくなっている。
「げん(gen)」から子音の「g」をとって、「えん(en)」です。
「G」から思い起こすものといえば「重力」。
重力(gravity)の頭文字をとって、「G」といえば「重力」とか「重力加速度」を意味します。
その「G」がなくなったということは、重力がなくなった「無重力」状態。
また「g」は「グラム」という重さの単位でもあります。
重さがなくなり、飛び立ったことを表しているのかもしれません。
はたまた「G」がなくなった…「自我」なくなった…「離我」に通じるのかもしれません。
言葉遊びはともかく、やぶちゃんは「玄」について、「私が『玄』になれるは、亡くなった後かもしれません」と言います。
以前の「わもんな言葉35-玄」でも書いたように、「玄」という漢字には、「ほの暗くてよく見えない」「奥深くて暗い」という意味があります。
「玄徳」というのが、「木にたとえると根に相当するところの徳」ならば、「玄」は木にたとえると根に相当するもの。
重力に縛られず、肉体にも縛られず、人の心に種を蒔き、根を張り、その人の中で生き続ける。
そんなわもんな人が「玄」なのかな、と想像します。
吉田松陰は、『留魂録』の中で、以下の言葉を遺しています。
義卿三十、四時已に備はる、亦秀で亦実る、其の秕たると其の粟たると吾が知る所に非ず。若し同志の士其の微衷を憐み継紹の人あらば、乃ち後来の種子未だ絶えず、自ら禾稼の有年に恥ざるなり。
人間の一生を四季に例え、松陰は自分の死を間近に控え、自分自身にも四季があり花咲き実をつけたはずだと述べます。
その実は籾殻なのか、それとも粟なのかは自分の知る所ではないが、この志を受け継ぐ人があれば、それは蒔かれた種子が絶えず、収穫のあった年に恥じないであろう、と。
私自身も、歴史に名を残したいとまでは思いませんが、せめて身近な人の心には残っていたいと思っています。
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