前々からプライベート用に名刺を作ってもいいかも、と思っていましたが、実行には移しておりませんでした。
しかし、今回、自分用の名刺を作ってもらいました。
「お守り名刺」です。
会社の名刺は持っているものの、更新をしておらず、現在手元にある名刺は転勤前のもの。
コールセンター勤務ですので、名刺を使う機会はほとんどなく、仕事上の不便は感じていません。
しかし、社外のイベントだとか、セミナーや研修等に参加すると、初対面の人に会うこともしばしば。
そんなとき、相手の方が名刺を差し出してくると…。
「持ち合わせていないので、恐縮ですが…」とお茶を濁すように受け取っていました。
コールセンター勤務といっても、コールセンターを運営するとか、コールセンターの支援を行っているとか、そういった仕事はしていないので、ビジネス上の付き合いはないだろうと高をくくってはいましたが、名刺をもらうだけというのも何となくバツが悪い。
なので、自分用の簡単な名刺でも作っておいてもいいかも、と思っていた次第。
しかし、必要に迫られているわけでもなく、「いつか」と先延ばし。
自分用に作ったとしても肩書も何もなく、必要ならばメモ書きでもいいかと。
初対面の方に会い、名刺をもらうたびに「つくってもいいかな」と思い出すくらいでした。
「お守り名刺」のことを知ったときも、作るのならこのような名刺がいいなとは思いましたが、そこで申し込みをすることはなくそのまま。
ここ最近、ちょこちょこと顔を出している「心徒塾」の題字を書かれているのが、小布施にある浄光寺の副住職、林永寿さんです。
その文字がとても味のある文字で、「お守り名刺」のことを知ったのもその頃です。
そして、月日はたち…。
先週のヤブログ放送室『風水とわもん4』を聞いたとき、「名刺を作ろう」と決めました。
自分の名前に蒔かれた種を育ててみようと。
『漢和辞典』は手元にないので調べていませんが、大学時代に漢字好きの友人がいて、その友人に自分の名前の漢字を調べてもらったことがあります。
私は「智洋」という名前ですが、「智」は「智慧(ちえ)」という言葉があるように「知識」などの意味があります。
「洋」は「太平洋」のように「広々」とか「広げる」という意味。
そのとき私が、「『知識を広めていく』といういい意味やね」と言うと、その友人は「いや、出し過ぎて頭の中は空っぽという意味(笑)」というやりとりがありましたが(笑)
そんなやりとりがあったものの、いい意味にとっています。
「智洋」という名前について、親からは「画数でいい名前を複数あげてもらって、その中から決めた」と聞いています。
選んだ理由はというと、私の母親は「ちひろ」という名前で、「智洋」は「ちひろ」とも読めるから、という理由。
苗字は「佐野」です。
「佐」の意味を調べたことはありませんが、先日、facebook上の本間先生からのコメントで「support」という意味があることを知りました。
そういえば「補佐」などの単語で出てきますね。
「サポートする分野で、知識を広める」
なかなかいい名前ではないですか!
そういうわけで、「お守り名刺」を作ってみました。
住所や電話番号やメールアドレスは載せず、肩書もなく、名前のみ。
少しさみしいかとも思い、facebookのアドレスのみ記載しましたが。
自分の名前に胸を張るのも名刺の効用かもしれません。
2012/05/31
2012/05/22
日食の物語
昨日(2012年5月21日)は、さまざまなところで金環日食が話題にあがりました。
国立天文台のHPによると、
珍しい現象ではあります。
私はというと、見れたらラッキー、くらいにしか思っていなかったので、朝起きて太陽を見てみましたが、曇っていて見えず。
根気よく待っていれば見れたのかもしれませんが。
言うまでもなく、金環日食は日食の現象のひとつを指すもので、太陽を隠す月よりも太陽が大きく(大きく見え)なければなりません。
太陽を全て隠してしまう日食を皆既日食と言います。
一部を隠す場合は部分日食。
日食で思い出す話は、日本神話の天照大御神の天岩戸に隠れてしまったという話です。
Wikipedia「日食」の項では、
部分日食や金環日食ではなく、皆既日食として。
皆既日食で太陽の光が届かない中、しばらくすると日食が明け、徐々に光が指し込んでくる。
天岩戸から天照がそっと外をのぞきこむ。
そんなイメージが重なっています。
古代の人々はイメージ豊かですね。
今回の金環日食でも、神話までとはいかないまでも、どこかで素敵な物語がつくられているのではないかと、と思いを馳せています。
国立天文台のHPによると、
日本の陸地に限ると、金環日食が観察できるのは、1987年9月23日に沖縄本島などで見られた金環日食以来のことです。次回も2030年6月1日に北海道で見られる金環日食まで、18年間起こりません。とのこと。
珍しい現象ではあります。
私はというと、見れたらラッキー、くらいにしか思っていなかったので、朝起きて太陽を見てみましたが、曇っていて見えず。
根気よく待っていれば見れたのかもしれませんが。
言うまでもなく、金環日食は日食の現象のひとつを指すもので、太陽を隠す月よりも太陽が大きく(大きく見え)なければなりません。
太陽を全て隠してしまう日食を皆既日食と言います。
一部を隠す場合は部分日食。
日食で思い出す話は、日本神話の天照大御神の天岩戸に隠れてしまったという話です。
Wikipedia「日食」の項では、
天照大御神の天の岩戸の神話は日食を表しているとの見方がある。現在のところ過去の特定の日食現象には同定されていない。計算上は、邪馬台国の時期に日本列島で日食が2回起きた可能性がある。卑弥呼が死んだとされる247年と248年である。国立天文台の谷川清隆・相馬充らは、「特定された日食は『日本書紀』推古天皇36年3月2日(628年4月10日)が最古であり、それより以前は途中の文献がないため地球の自転速度低下により特定できない」としている。とあり、必ずしも日食の話とは断定できないようですが、私はこの話は日食を元につくられたのではないかと思っています。
部分日食や金環日食ではなく、皆既日食として。
皆既日食で太陽の光が届かない中、しばらくすると日食が明け、徐々に光が指し込んでくる。
天岩戸から天照がそっと外をのぞきこむ。
そんなイメージが重なっています。
古代の人々はイメージ豊かですね。
今回の金環日食でも、神話までとはいかないまでも、どこかで素敵な物語がつくられているのではないかと、と思いを馳せています。
2012/05/20
雑記
とある定食屋さんでとんかつ定食を注文しました。
ご飯とみそ汁、お新香、そしてとんかつと生野菜。
私にとってはまともな食事(^-^;)
そして、ソースが2種類。
ひとつは、普通のとんかつソース(普通のとんかつソースとはどんなソースか、は問わないでください)。
もうひとつは、たぶんそのとんかつソースにからしを混ぜたもの。
「ん!?」と思ったのは、その2種類のソースが小鉢に入って出てきたことです。
2種類の味が楽しめるのはうれしいことですが、どう考えてもソースが余ります。
「使いたい分だけ使えるようにした方がいいのではないか?」と考えてしまいました。
ちょっともったいない。
そんなことを考えつつ食べていると、生野菜の陰にからしが盛ってありました。
今度は、「ソース2種類もいらないんじゃないか…」と。
結局、ソースもからしも余らして食事終了。
味は、おいしかったのですけれども。
話は変わって、いつの頃からかは知りませんが、コンビニのサラダはドレッシングが別売りになりました。
家で弁当を食べるときなどは、冷蔵庫にドレッシングがあるので、別売りの方がいい。
弁当を買うと、その弁当にマヨネーズやソースが小袋でついてくることがありますが、そういうものも別売りにしてもいいような気がします。
あるいは欲しい人だけ持っていけるサービスにした方がいいかも。
割りばしやストローも、欲しい人だけにした方がいいと思うのですが、コンビニで弁当を買ったりすると無条件についてきます。
店員によっては、「必要ですか?」と聞いてくれる人もいますけれど。
しかし、1リットルの牛乳を買ったときに、ストローはいらない…(^-^;)
コンビニでとんかつ弁当を買ったとき、からしがついてきますが、私にとってはからしはいりません。
しかし、ついているものを使わないのもどうかと思うし、とっておいても使い道がないので、全部使います。
貧乏性ですかね。
必要なものが必要な分だけ、過不足なくあることが生活の理想ですが、なかなか難しいです。
ご飯とみそ汁、お新香、そしてとんかつと生野菜。
私にとってはまともな食事(^-^;)
そして、ソースが2種類。
ひとつは、普通のとんかつソース(普通のとんかつソースとはどんなソースか、は問わないでください)。
もうひとつは、たぶんそのとんかつソースにからしを混ぜたもの。
「ん!?」と思ったのは、その2種類のソースが小鉢に入って出てきたことです。
2種類の味が楽しめるのはうれしいことですが、どう考えてもソースが余ります。
「使いたい分だけ使えるようにした方がいいのではないか?」と考えてしまいました。
ちょっともったいない。
そんなことを考えつつ食べていると、生野菜の陰にからしが盛ってありました。
今度は、「ソース2種類もいらないんじゃないか…」と。
結局、ソースもからしも余らして食事終了。
味は、おいしかったのですけれども。
話は変わって、いつの頃からかは知りませんが、コンビニのサラダはドレッシングが別売りになりました。
家で弁当を食べるときなどは、冷蔵庫にドレッシングがあるので、別売りの方がいい。
弁当を買うと、その弁当にマヨネーズやソースが小袋でついてくることがありますが、そういうものも別売りにしてもいいような気がします。
あるいは欲しい人だけ持っていけるサービスにした方がいいかも。
割りばしやストローも、欲しい人だけにした方がいいと思うのですが、コンビニで弁当を買ったりすると無条件についてきます。
店員によっては、「必要ですか?」と聞いてくれる人もいますけれど。
しかし、1リットルの牛乳を買ったときに、ストローはいらない…(^-^;)
コンビニでとんかつ弁当を買ったとき、からしがついてきますが、私にとってはからしはいりません。
しかし、ついているものを使わないのもどうかと思うし、とっておいても使い道がないので、全部使います。
貧乏性ですかね。
必要なものが必要な分だけ、過不足なくあることが生活の理想ですが、なかなか難しいです。
2012/05/17
『(ら)れる』のコーチング論(2)
以前に「『(ら)れる』のコーチング論(1)-受身・被害・自発・可能・尊敬」という記事を書きました。
今、確認するとずいぶん前ですね…。
これは、日本語の助動詞「れる・られる」と、コーチングには共通点があるかもしれない、と思いつきで書いた記事です。
今回はその続編…、になるかどうか…。
日本コーチ協会のHPでは、コーチングとは以下のように書かれています。
現在地と目標を意識させ、選択肢を明確にし、意思決定や行動をより起こしやすくしていく。そして成果を達成していく。
クライアントの自主性を高めていくとも言い換えることができます。
さて、私は大学生のとき、言語学を学んでいました。統語論が中心です。できのいい学生ではありませんでしたが…。
そこで、受動態(いわゆる「受身」)についてもかじりました。
柴谷方良先生はプロトタイプ論の立場から、受動化の機能を「動作主の脱焦点化」とし、その機能が「尊敬・可能・自発」の構文に関連付けられることを論じています。
当時からあまり深くは理解できておらず、今ではもうあやふやになってきてしまい、論文や参考文献も手元に置いていないのでおぼつかない知識のままですが、そこでは「他動性」という概念が出てきます。
「他動性」が高い現象は、言語において「他動詞構文」として表現され、「他動性」が低い現象は「自動詞構文」として表現されます。
つまり、「他動性」という概念を用いて、他動詞構文と自動詞構文をひとつの連続体として取り扱おうという試みです(このような表現が適切かどうかはさておき…)。
他動性が高い動詞としてよく例に取り上げられていたのは、物騒ですが、「殺す」や「壊す」「割る」といった動詞。
動作を行う動作主がいて、対象に何らかの力を与えてその対象が変化する、そういった意味を表わす動詞(あるいは文)を他動性が高いといいます。
そして、他動性が高い能動文からは、容易に受動文が作れます。
例えば、(物騒ですが)「太郎は次郎を殺した」という能動文を受動文にする(受動化)と「次郎は太郎に殺された」となります。
「太郎は次郎を殺した」の例でいうと、太郎は「殺す」という動詞の「動作主」、次郎は「殺す」という動詞の「対象」といえます。
能動文では、動作主が主語として、対象が目的語として表現されますが、受動文では、対象が主語、動作主は助動詞「に」を伴って表現されます。
能動文では、動作主が焦点として主語となっていますが、受動文では焦点が対象となっている、つまり受動文では動作主が脱焦点化されているわけです。
(※「主語」とは何か?等の問題は詳しくは立ち入りません…)
受動化の機能を「動作主の脱焦点化」とすると、典型的な、あるいはプロトタイプ的な受動文は「受身」の意味ですが、そこからの意味の発展・拡張として、「尊敬」「可能」「自発」の意味が生まれるのではないか、という説です。
(何度も書きますが、うろ覚えです…。)
統語的に比較すると、能動文では動作主は助詞「ガ」、対象は助詞「ヲ」を伴い、動詞は基本形。
受動文では動作主は助詞「ニ」、対象は助詞「ガ」を伴い、動詞には助動詞「(ラ)レル」が付きます。
一方で「自発」的な表現というのは、自然にそうなった、というような表現で、例えば「ガラスが割れた」など(本当に何もなく自然にガラスが割れることは確率的には少ないにも関わらず。)という表現です。
ここには動作主は不在で、対象は「ガ」を伴って、また「割る」という動詞から派生した「割れる」という動詞を使用します。
また一方で、「可能」的な表現では、「太郎は瓦が割れる(=割ることができる)」というような表現で、対象は「ガ」を伴いますが、動作主がいます。
動詞は「割れる」ですね。
また、「太郎は瓦を割れる(=割ることができる)」というように、対象が「ヲ」を伴って表現されることもあります。(違和感がある表現と感じる方もいらっしゃるかもしれません。)
「割る」と「割れる」という他動詞・自動詞の対を考えるとき、「ら抜き言葉」を思い出さずにはいられません。
「ら抜き言葉」を日本語の乱れと考えられる方もいらっしゃいますが、私は「可能動詞の生成」と考えています。
例えば、「食べる」を助動詞「(ら)れる」をつけると「食べられる」となりますが、この「食べられる」は受身の意味にも可能の意味にも使うことができます。
しかし、その「ら抜き言葉」である「食べれる」は、可能の意味でしか使われず、受身の意味で用いられることはありません。
「食べれる」という可能動詞ができつつある現象が「ら抜き言葉」ではないかと捉えることもできます。
例えていうならば「青」と「緑」の間の色を「青緑」というように、「能動」と「受動」の間に「可能」があるのではないかともいえるのではないか。
同じように「自発」「尊敬」も、「能動」と「受動(受身)」の間にあるのではないか。
コーチングの話に戻すと、コーチングの目的は、「動作主の焦点化」ではないかと思っています。
クライアントに焦点をあて、クライアントが主語で、クライアントが動作主。
受身的の状態から、能動的になるよう促していくのがコーチングの目的ではないかと。
受身と能動の間には、可能・自発・尊敬があります。
クライアントができるようにする。
クライアントが自発的・自主的な行動を起こせるようになる。
クライアントを尊重する。
コーチが不在でも、クライアントは動作主として、他の対象に影響を与え、その環境を変えていく。
上手くはいえませんが、「(ら)れる」のコーチング論というのは、「言語(あるいは認識)」と「コーチング」を統一的に考えようとする試みです。
今、確認するとずいぶん前ですね…。
これは、日本語の助動詞「れる・られる」と、コーチングには共通点があるかもしれない、と思いつきで書いた記事です。
今回はその続編…、になるかどうか…。
日本コーチ協会のHPでは、コーチングとは以下のように書かれています。
■コーチングとは?
プロフェッショナル・コーチングとは、コーチとしての専門的なトレーニングを受けたコーチとクライアントと呼ばれる個人(またはチーム)が目標を設定し、成果を達成していくためのパートナーシップです。
クライアントとコーチは会話を通じてコミュニケーションを交わします。コーチは聞き、観察し、質問し、時には提案することによって、クライアントの行動をより起こしやすくしていきます。
コーチングのプロセスでは、コーチはクライアントがより効率よく、より効果的に行動できるよう焦点を絞り、あらゆる行動の選択肢を明確にします。同時にコーチはクライアントの現在地と、向かう先の位置を意識させます。
コーチによるコーチングスキル、コーチングアプローチ、コーチング知識のサポートを得ることで、クライアントは自分の責任において意思決定、選択、そして行動を起こし、成果がもたらされます。プロのコーチはその関係を理解しています。
現在地と目標を意識させ、選択肢を明確にし、意思決定や行動をより起こしやすくしていく。そして成果を達成していく。
クライアントの自主性を高めていくとも言い換えることができます。
さて、私は大学生のとき、言語学を学んでいました。統語論が中心です。できのいい学生ではありませんでしたが…。
そこで、受動態(いわゆる「受身」)についてもかじりました。
柴谷方良先生はプロトタイプ論の立場から、受動化の機能を「動作主の脱焦点化」とし、その機能が「尊敬・可能・自発」の構文に関連付けられることを論じています。
当時からあまり深くは理解できておらず、今ではもうあやふやになってきてしまい、論文や参考文献も手元に置いていないのでおぼつかない知識のままですが、そこでは「他動性」という概念が出てきます。
「他動性」が高い現象は、言語において「他動詞構文」として表現され、「他動性」が低い現象は「自動詞構文」として表現されます。
つまり、「他動性」という概念を用いて、他動詞構文と自動詞構文をひとつの連続体として取り扱おうという試みです(このような表現が適切かどうかはさておき…)。
他動性が高い動詞としてよく例に取り上げられていたのは、物騒ですが、「殺す」や「壊す」「割る」といった動詞。
動作を行う動作主がいて、対象に何らかの力を与えてその対象が変化する、そういった意味を表わす動詞(あるいは文)を他動性が高いといいます。
そして、他動性が高い能動文からは、容易に受動文が作れます。
例えば、(物騒ですが)「太郎は次郎を殺した」という能動文を受動文にする(受動化)と「次郎は太郎に殺された」となります。
「太郎は次郎を殺した」の例でいうと、太郎は「殺す」という動詞の「動作主」、次郎は「殺す」という動詞の「対象」といえます。
能動文では、動作主が主語として、対象が目的語として表現されますが、受動文では、対象が主語、動作主は助動詞「に」を伴って表現されます。
能動文では、動作主が焦点として主語となっていますが、受動文では焦点が対象となっている、つまり受動文では動作主が脱焦点化されているわけです。
(※「主語」とは何か?等の問題は詳しくは立ち入りません…)
受動化の機能を「動作主の脱焦点化」とすると、典型的な、あるいはプロトタイプ的な受動文は「受身」の意味ですが、そこからの意味の発展・拡張として、「尊敬」「可能」「自発」の意味が生まれるのではないか、という説です。
(何度も書きますが、うろ覚えです…。)
統語的に比較すると、能動文では動作主は助詞「ガ」、対象は助詞「ヲ」を伴い、動詞は基本形。
受動文では動作主は助詞「ニ」、対象は助詞「ガ」を伴い、動詞には助動詞「(ラ)レル」が付きます。
一方で「自発」的な表現というのは、自然にそうなった、というような表現で、例えば「ガラスが割れた」など(本当に何もなく自然にガラスが割れることは確率的には少ないにも関わらず。)という表現です。
ここには動作主は不在で、対象は「ガ」を伴って、また「割る」という動詞から派生した「割れる」という動詞を使用します。
また一方で、「可能」的な表現では、「太郎は瓦が割れる(=割ることができる)」というような表現で、対象は「ガ」を伴いますが、動作主がいます。
動詞は「割れる」ですね。
また、「太郎は瓦を割れる(=割ることができる)」というように、対象が「ヲ」を伴って表現されることもあります。(違和感がある表現と感じる方もいらっしゃるかもしれません。)
「割る」と「割れる」という他動詞・自動詞の対を考えるとき、「ら抜き言葉」を思い出さずにはいられません。
「ら抜き言葉」を日本語の乱れと考えられる方もいらっしゃいますが、私は「可能動詞の生成」と考えています。
例えば、「食べる」を助動詞「(ら)れる」をつけると「食べられる」となりますが、この「食べられる」は受身の意味にも可能の意味にも使うことができます。
しかし、その「ら抜き言葉」である「食べれる」は、可能の意味でしか使われず、受身の意味で用いられることはありません。
「食べれる」という可能動詞ができつつある現象が「ら抜き言葉」ではないかと捉えることもできます。
例えていうならば「青」と「緑」の間の色を「青緑」というように、「能動」と「受動」の間に「可能」があるのではないかともいえるのではないか。
同じように「自発」「尊敬」も、「能動」と「受動(受身)」の間にあるのではないか。
コーチングの話に戻すと、コーチングの目的は、「動作主の焦点化」ではないかと思っています。
クライアントに焦点をあて、クライアントが主語で、クライアントが動作主。
受身的の状態から、能動的になるよう促していくのがコーチングの目的ではないかと。
受身と能動の間には、可能・自発・尊敬があります。
クライアントができるようにする。
クライアントが自発的・自主的な行動を起こせるようになる。
クライアントを尊重する。
コーチが不在でも、クライアントは動作主として、他の対象に影響を与え、その環境を変えていく。
上手くはいえませんが、「(ら)れる」のコーチング論というのは、「言語(あるいは認識)」と「コーチング」を統一的に考えようとする試みです。
2012/05/13
雑記
「0.999… = 1」
ずっと、頭では納得しつつも、何となく違和感があります。
先日、飲茶さんの『史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち』という本で、老子・荘子の箇所を読んでいたとき「一」という概念(いや、概念ではないけれども)が出てきました。
そこで思い出したのが、「0.999… = 1」のことです。
前々から、「無限」と「一」というのは、同じものを違った側面から見ているものではないか、という気がしてならないのですが、全く上手く説明することができません。
「無限」と「一」との関係が今一つ説明しにくいのです。
『史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち』の「荘子」の節で、「言葉によって境界が生まれる」という言葉がありました。
これは、私もそんな風に思っていた(といっても私が思いついたわけではありませんが…)ので、「うん、そのとおり」などと思いながら読んでいたのですが、ふと、「0.999… = 1」というのは、境界のことではないか、と思いました。
で、ちょっと押し進めて、「0.999…」というのは「1」を内側からみたときの表現なのではないか、とも。
もちろん、「1」に内側や外側があるわけではなく、また内側や外側も私自身がそう思っているわけで、実際にこっちが内、あっちは外といえるわけでもなく、甚だ心もとないことなのですが、以前よりは「0.999… = 1」が納得できた気がします。
例えば、「宇宙」という言葉。
私たちは宇宙の中にいて、宇宙は無限の広がりを持っているように思えます。
しかし、「宇宙」と言葉にしてしまうと、宇宙の外に何かがあるような気もします。
このようなことを、言葉で説明するのは、難しい…。
認識の方法と表現の方法。
その代表格が「言葉」。
この辺りの興味は尽きることがありません。
ずっと、頭では納得しつつも、何となく違和感があります。
先日、飲茶さんの『史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち』という本で、老子・荘子の箇所を読んでいたとき「一」という概念(いや、概念ではないけれども)が出てきました。
そこで思い出したのが、「0.999… = 1」のことです。
前々から、「無限」と「一」というのは、同じものを違った側面から見ているものではないか、という気がしてならないのですが、全く上手く説明することができません。
「無限」と「一」との関係が今一つ説明しにくいのです。
『史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち』の「荘子」の節で、「言葉によって境界が生まれる」という言葉がありました。
これは、私もそんな風に思っていた(といっても私が思いついたわけではありませんが…)ので、「うん、そのとおり」などと思いながら読んでいたのですが、ふと、「0.999… = 1」というのは、境界のことではないか、と思いました。
で、ちょっと押し進めて、「0.999…」というのは「1」を内側からみたときの表現なのではないか、とも。
もちろん、「1」に内側や外側があるわけではなく、また内側や外側も私自身がそう思っているわけで、実際にこっちが内、あっちは外といえるわけでもなく、甚だ心もとないことなのですが、以前よりは「0.999… = 1」が納得できた気がします。
例えば、「宇宙」という言葉。
私たちは宇宙の中にいて、宇宙は無限の広がりを持っているように思えます。
しかし、「宇宙」と言葉にしてしまうと、宇宙の外に何かがあるような気もします。
このようなことを、言葉で説明するのは、難しい…。
認識の方法と表現の方法。
その代表格が「言葉」。
この辺りの興味は尽きることがありません。
2012/05/06
ファシリテーションと滑り台
ゴールデンウィークの終盤2日間にかけて、本間先生の「起承転結講座」に参加してきました。
ファシリテーションスキルについての気付きや学びはもちろんですが、講座自体の流れが非常にスムーズで、7時間(×2日間)という長丁場でありながら、飽きがこないというのがすごいと思いました。
そこで、今回「流れ」について考えてみたいと思った次第です。
「流れ」というのは、例えば「水の流れ」のように、水のような液体が何かに沿って上の方から下の方に移動していく様をいいます。
「車の流れ」というように液体とは限りません。
また、川の流れでは重力にしたがって上流から下流、となりますが、車の流れでは「上から下」とはあまり言わないように、どちらかというと横方向に近い移動となります。
上から下に「落ちる」のではなく、何かしら下には川底なり道路なりがあって、横方向に進んでいくことです。
渋滞などで車が止まったりすると「流れが止まった」となるように、速さの基準があるかどうかはわかりませんが、止まらずに進んでいくことも要素のひとつですかね。
で、「流れがいい」とか「いい流れ」というと、私の感覚では、緩急がついていて淀みなく流れていくようなイメージです。
一本調子の等速運動でもなく、どんどん加速度がついていく等加速度運動でもなく、緩い流れ、急な流れがあることです。
で、連想するイメージは滑り台です。
短い距離ならば斜めに直線的に滑る滑り台もあると思いますが、長い滑り台ともなれば、途中ちょっと水平的なところがあったり、横に曲がっていたりと、スピードが出過ぎないようになる工夫がなされています。
ここから類推して、ファシリテーションというのは滑り台を設計することと近いのかもしれません。
スピードが出過ぎてしまわないように、曲がるときには滑り台から飛び出さないように、もちろん壊れたりしないように…。
滑る人の安全・安心を考えて。
また止まってしまってはつまらないので、ある程度のスピードはでるように。
滑って降りていくことは、落ちる、飛び降りるよりははるかに安全で、また引力に身をまかせていれば自分の力を最小限できるので、階段で降りるよりも楽です。
ファシリテーションは英語で書くと「facilitation」。
「容易・簡易にすること」「促進・助成」といった意味があります。
関連する語に「ファシリティ(facility)」という単語もありますが、こちらは「設備」などの意味。
滑り台も設備かな(^-^;)
滑り台を設計しろ、となると様々な知識・技術が必要です。
ファシリテーションにも、様々な知識・スキルが必要ですね。
滑るだけではなく、いつかは滑り台を設計してみたいものです。
ファシリテーションスキルについての気付きや学びはもちろんですが、講座自体の流れが非常にスムーズで、7時間(×2日間)という長丁場でありながら、飽きがこないというのがすごいと思いました。
そこで、今回「流れ」について考えてみたいと思った次第です。
「流れ」というのは、例えば「水の流れ」のように、水のような液体が何かに沿って上の方から下の方に移動していく様をいいます。
「車の流れ」というように液体とは限りません。
また、川の流れでは重力にしたがって上流から下流、となりますが、車の流れでは「上から下」とはあまり言わないように、どちらかというと横方向に近い移動となります。
上から下に「落ちる」のではなく、何かしら下には川底なり道路なりがあって、横方向に進んでいくことです。
渋滞などで車が止まったりすると「流れが止まった」となるように、速さの基準があるかどうかはわかりませんが、止まらずに進んでいくことも要素のひとつですかね。
で、「流れがいい」とか「いい流れ」というと、私の感覚では、緩急がついていて淀みなく流れていくようなイメージです。
一本調子の等速運動でもなく、どんどん加速度がついていく等加速度運動でもなく、緩い流れ、急な流れがあることです。
で、連想するイメージは滑り台です。
短い距離ならば斜めに直線的に滑る滑り台もあると思いますが、長い滑り台ともなれば、途中ちょっと水平的なところがあったり、横に曲がっていたりと、スピードが出過ぎないようになる工夫がなされています。
ここから類推して、ファシリテーションというのは滑り台を設計することと近いのかもしれません。
スピードが出過ぎてしまわないように、曲がるときには滑り台から飛び出さないように、もちろん壊れたりしないように…。
滑る人の安全・安心を考えて。
また止まってしまってはつまらないので、ある程度のスピードはでるように。
滑って降りていくことは、落ちる、飛び降りるよりははるかに安全で、また引力に身をまかせていれば自分の力を最小限できるので、階段で降りるよりも楽です。
ファシリテーションは英語で書くと「facilitation」。
「容易・簡易にすること」「促進・助成」といった意味があります。
関連する語に「ファシリティ(facility)」という単語もありますが、こちらは「設備」などの意味。
滑り台も設備かな(^-^;)
滑り台を設計しろ、となると様々な知識・技術が必要です。
ファシリテーションにも、様々な知識・スキルが必要ですね。
滑るだけではなく、いつかは滑り台を設計してみたいものです。
2012/05/04
『中庸』読み下し文
(凡例はこの記事の最後にあります)
================================
天の命ずるをこれ性と謂う。
性に率うをこれ道と謂う。
道を脩むるをこれ教と謂う。
道なる者は、須臾も離るべからざるなり。
離るべきは道に非ざるなり。
是の故に君子はその睹ざる所に戒慎し、その聞かざる所に恐懼す。
隠れたるより見わるるは莫く、微かなるより顕わるるは莫し。
故に君子はその独を慎むなり。
喜怒哀楽の未だ発せざる、これを中と謂う。
発して皆な節に中る、これを和と謂う。
中なる者は天下の大本なり。
和なる者は天下の達道なり。
中和を致して、天地位し、万物育す。
仲尼曰く「君子は中庸し、小人は中庸に反す。
君子の中庸は、君子にして時に中すればなり。
小人の中庸に反するは、小人にして忌憚するなければなり」と。
子曰く「中庸は其れ至れるかな。
民能くする鮮きこと久し」と。
子曰く「道の行なわれざるや、我これを知れり。
知者はこれに過ぎ、愚者は及ばざるなり。
道の明らかならざるや、我これを知れり。
賢者はこれに過ぎ、不肖者は及ばざるなり。
人は飲食せざるもの莫きも、能く味を知るもの鮮きなり」と。
子曰く「道は其れ行なわれざるかな」と。
子曰く「舜は其れ大知なるか。
舜は問うことを好み、而して邇言を察することを好み、
悪を隠して善を揚げ、その両端を執りて、その中を民に用う。
それ斯を以て舜と為すか」と。
子曰く「人は皆な予は知ありと曰うも、
駆りて諸れを罟擭陥阱の中に納れて、これを避くるを知ること莫きなり。
人は皆な予は知ありと曰うも、
中庸を択びて、期月も守ること能わざるなり」と。
子曰く「回の人と為りや、中庸を択び、
一善を得れば、則ち拳拳服膺して、これを失わず」と。
子曰く「天下国家も均しくすべきなり。
爵禄も辞すべきなり。
白刃も踏むべきなり。
中庸は能くすべからざるなり」と。
子路、強を問う。
子曰く「南方の強か、北方の強か、抑いは而の強か。
寛柔以て教え、無道にも報いざるは、南方の強なり。
君子これに居る。
金革を衽とし、死して厭わざるは、北方の強なり。
而の強者これに居る。
故に君子は和して流れず、強なるかな矯たり。
中立して倚らず、強なるかな矯たり。
国に道あるときは塞を変ぜず、強なるかな矯たり。
国に道なきときも死に至るまで変ぜず、強なるかな矯たり」と。
子曰く「隠れたるを索め怪しきを行なうは、
後世に述ぶること有らんも、吾れはこれを為さず。
君子は道に遵いて行なう。
半塗にして廃するも、吾れは已むこと能わず。
君子は中庸に依る。
世を遯れて知られざるも悔いざるは、唯だ聖者のみこれを能くす」と。
君子の道は、費にして隠なり。
夫婦の愚も、以て与り知るべきも、その至れるに及んでは、
聖人と雖も、亦た知らざる所あり。
夫婦の不肖も、以て能く行なうべきも、その至れるに及んでは、
聖人と雖も、亦た能くせざる所あり。
天地の大なるも、人猶お憾む所あり。
故に君子大を語れば、天下能く載すること莫し。
小を語れば、天下能く破ること莫し。
詩に云う「鳶飛んで天に戻り、魚淵に踊る」と。
その上下に察るを言うなり。
君子の道は、端を夫婦に造め、その至れるに及んでは、天地にも察るなり。
子曰く「道は人に遠からず。
人の道を為して人に遠きは、以て道と為すべからず。
詩に云う「柯を伐り柯を伐る、その則遠からず」と。
柯を執りて以て柯を伐る、睨してこれを視るも、猶お以て遠しと為す。
故に君子は人を以て人を治め、改むるのみ。
忠恕は道を違ること遠からず。
諸れを己れに施して願わざれば、亦た人に施すこと勿かれ。
君子の道は四あり。
丘、未だ一をも能くせず。
子に求むる所、以て父に事うること、未だ能くせざるなり。
臣に求むる所、以て君に事うること、未だ能くせざるなり。
弟に求むる所、以て兄に事うること、未だ能くせざるなり。
朋友に求むる所、先ずこれを施すこと、未だ能くせざるなり。
庸徳をこれ行ない、庸言をこれ謹しみ、
足らざる所あれば、敢えて勉めずんばあらず、余りあれば敢えて尽くさず。
言は行を顧み、行は言を顧みる。
君子胡んぞ慥慥爾たらざらん」と。
君子はその位に素して行ない、その外を願わず。
富貴に素しては富貴に行ない、貧賤に素しては貧賤に行ない、
夷狄に素しては夷狄に行ない、患難に素しては患難に行なう。
君子は入るとして自得せざることなし。
上位に在りては下を陵がず、下位に在りては上を援かず、
己れを正しくして人に求めざれば、則ち怨みなし。
上は天を怨みず、下は人を尤めず。
故に君子は易に居りて以て命を俟ち、小人は険を行ないて以て幸を徼む。
子曰く「射は君子に似たること有り。
諸れを正鵠に失すれば、反って諸れをその身に求む」と。
君子の道は、辟えば遠きに行くに、必ず邇きよりするが如く、
辟えば高きに登るに、必ず卑きよりするが如し。
詩に曰く「妻子好合すること、瑟琴を鼓するが如し。
兄弟既に翕い、和楽して且つ耽しむ。
爾が室家に宜しく、爾が妻帑を楽しましむ」と。
子曰く「父母は其れ順ならんか」と。
子曰く「舜は其れ大孝なるかな。
徳は聖人たり、尊は天子たり、富は四海の内を有ち、
宗廟これを饗け、子孫これを保つ」と。
故に大徳は必ずその位を得、必ずその禄を得、
必ずその名を得、必ずその寿を得。
故に天の物を生ずるは、必ずその材に因りて篤くす。
故に栽つ者はこれを培い、傾く者はこれを覆えす。
詩に曰く「嘉楽の君子、憲憲たる令徳あり、
民に宜しく人に宜しく、禄を天に受く。
保佑してこれに命じ、天よりこれを申ぬ」と。
故に大徳の者は、必ず命を受く。
子曰く「憂いなき者は、其れ唯だ文王なるかな。
王季を以て父と為し、武王を以て子と為し、
父これを作り、子これを述ぶ」と。
武王は、大王・王季・文王の緒を纘ぎ、
壱たび戎衣して天下を有ち、身は天下の顕名を失わず。
尊は天子たり、富は四海の内を有ち、
宗廟これを饗け、子孫これを保つ。
武王は末に命を受く。
周公は文・武の徳を成し、大王・王季を追王し、
上、先公を祀るに天子の礼を以てす。
斯の礼や、諸侯・大夫及び士・庶人に達す。
父は大夫たり、子は士たらば、葬るに大夫を以てし、祭るに士を以てす。
父は士たり、子は大夫たらば、葬るに士を以てし、祭るに大夫を以てす。
期の喪は大夫に達し、三年の喪は天子に達す。
父母の喪は、貴賤となく一なり。
子曰く「武王・周公は、其れ達孝なるかな。
夫れ孝とは、善く人の志を継ぎ、善く人の事を述ぶる者なり」と。
春秋にはその祖廟を脩め、その宗器を陳ね、
その裳衣を設け、その時食を薦む。
宗廟の礼は、昭穆を序する所以なり。
爵を序するは、貴賤を弁ずる所以なり。
事を序するは、賢を弁する所以なり。
旅酬に下の上の為めにするは、賤に逮ぼす所以なり。
燕毛は、歯を序する所以なり。
その位を践み、その礼を行ない、その楽を奏し、
その尊ぶ所を敬し、その親しむ所を愛し、
死に事うること生に事うるが如くし、
亡に事うること存に事うるが如くするは、孝の至りなり。
郊社の礼は、上帝に事うる所以なり。
宗廟の礼は、その先を祀る所以なり。
郊社の礼・禘嘗の義に明らかなれば、
国を治むること其れ諸れを掌に示るが如きか。
哀公、政を問う。
子曰く「文・武の政は、布きて方策に在り。
その人存すれば、則ちその政挙がり、その人亡ければ、則ちその政息む。
人道は政を敏め、地道は樹を敏む。
夫れ政なる者は蒲盧なり」と。
故に政を為すは人に在り。
人を取るには身を以てし、身を脩むるには道を以てし、
道を脩むるには仁を以てす。
仁とは人なり、親を親しむを大と為す。
義とは宜なり、賢を尊ぶを大と為す。
親を親しむの殺、賢を尊ぶの等は、礼の生ずる所なり。
故に君子は以て身を脩めざるべからず。
身を脩めんと思わば、以て親に事えざるべからず。
親に事えんと思わば、以て人知らざるべからず。
人を知らんと思わば、以て天を知らざるべからず。
天下の達道は五、これを行なう所以の者は三。
曰く、君臣なり、父子なり、夫婦なり、昆弟なり、朋友の交なり。
五者は天下の達道なり。
知・仁・勇の三者は、天下の達徳なり。
これを行なう所以の者なり。
或いは生まれながらにしてこれを知り、或いは学んでこれを知り、
或いは困しんでこれを知る。
そのこれを知るに及んでは、一なり。
或いは安んじてこれを行ない、或いは利としてこれを行ない、
或いは勉強してこれを行なう。
その功を成すに及んでは、一なり。
子曰く「学を好むは知に近し。
力めて行なうは仁に近し。
恥を知るは勇に近し」と。
斯の三者を知れば、則ち身を脩むる所以を知る。
身を脩むる所以を知れば、則ち人を治むる所以を知る。
人を治むる所以を知れば、則ち天下国家を治むる所以を知る。
凡そ天下国家を為むるに、九経あり。
曰く、身を脩むるなり、賢を尊ぶなり、親を親しむなり、
大臣を敬するなり、群臣を体するなり、庶民を子しむなり、
百工を来うなり、遠人を柔ぐるなり、諸侯を懐くるなり。
身を脩むれば、則ち道立つ。
賢を尊べば、則ち惑わず。
親を親しめば、則ち諸父・昆弟怨みず。
大臣を敬すれば、則ち眩わず。
群臣を体すれば、則ち報礼重し。
庶民を子しめば、則ち百姓勧む。
百工を来えば、則ち財用足る。
遠人を柔ぐれば、則ち四方これに帰す。
諸侯を懐くれば、則ち天下これを畏る。
斉明盛服して、礼に非ざれば動かざるは、身を脩むる所以なり。
讒を去り色を遠ざけ、貨を賤しみて徳を尊ぶは、賢を勧むる所以なり。
その位を尊くしその禄を重くし、その好悪を同じくするは、
親を勧むる所以なり。
官盛んにして任使せしむるは、大臣を勧むる所以なり。
忠信にして禄を重くするは、士を勧むる所以なり。
時に使いて薄く斂むるは、百姓を勧むる所以なり。
日に省み月に試みて、既稟事に称うは、百工を勧むる所以なり。
往くを送り来たるを迎え、善を嘉して不能を矜むは、遠人を柔ぐる所以なり。
絶世を継ぎ廃国を挙げ、乱れたるを治め危うきを持し、
朝聘は時を以てせしめ、往くを厚くして来たるを薄くするは、
諸侯を懐くる所以なり。
凡そ天下国家を為むるに、九経あり。
これを行なう所以の者は一なり。
凡そ事は予めすれば則ち立ち、予めせざれば則ち廃す。
言前に定まれば則ち跲かず、事前に定まれば則ち困まず、
行ない前に定まれば則ち疚まず、道前に定まれば則ち窮せず。
下位に在りて上に獲られざれば、民は得て治むべからず。
上に獲らるるに道あり、朋友に信ぜられざれば、上に獲られず。
朋友に信ぜらるるに道あり、親に順ならざれば、朋友に信ぜられず。
親に順なるに道あり、諸れを身に反みて誠ならざれば、親に順ならず。
身を誠にするに道あり、善に明らかならざれば、身に誠ならず。
誠なる者は、天の道なり。
これを誠にする者は、人の道なり。
誠なる者は、勉めずして中たり、思わずして得、
従容として道に中たる、聖人なり。
これを誠にする者は、善を択びて固くこれを執る者なり。
博くこれを学び、審らかにこれを問い、慎みてこれを思い、
明らかにこれを弁じ、篤くこれを行なう。
学ばざることあれば、これを学びて能くせざれば措かざるなり。
問わざることあれば、これを問いて知らざれば措かざるなり。
思わざることあれば、これを思いて得ざれば措かざるなり。
弁ぜらることあれば、これを弁じて明らかならざれば措かざるなり。
行なわざることあれば、これを行ないて篤からざれば措かざるなり。
人一たびしてこれを能くすれば、己れはこれを百たびす。
人十たびしてこれを能くすれば、己れはこれを千たびす。
果たして此の道を能くすれば、
愚なりと雖も必ず明らかに、柔なりと雖も必ず強からん。
誠なる自り明らかなる、これを性と謂う。
明らかなる自り誠なる、これを教えと謂う。
誠なれば則ち明らかなり、明らかなれば則ち誠なり。
唯だ天下の至誠のみ、能くその性を尽くすと為す。
能くその性を尽くせば、則ち能く人の性を尽くす。
能く人の性を尽くせば、則ち能く物の性を尽くす。
能く物の性を尽くせば、則ち以て天地の化育を賛くべし。
以て天地の化育を賛くべくんば、則ち以て天地と参なるべし。
その次は曲を致す。
曲に能く誠あり。
誠なれば則ち形われ、形われば則ち著るしく、
著るしければ則ち明らかに、明らかなれば則ち動かし、
動かせば則ち変じ、変ずれば則ち化す。
唯だ天下の至誠のみ、能く化すると為す。
至誠の道は、以て前知すべし。
国家将に興らんとすれば、必ず禎祥あり。
国家将に亡びんとすれば、必ず妖孽あり。
蓍亀に見われ、四体に動く。
禍福将に至らんとすれば、
善も必ず先にこれを知り、不善も必ず先にこれを知る。
故に至誠は神の如し。
子曰く「鬼神の徳たる、其れ盛んなるかな。
これを視れども見えず、これを聴けども聞こえず、物を体して遺すべからず。
天下の人をして、斉明盛服して、以て祭祀を承けしむ。
洋洋乎として、その上に在るが如く、その左右に在るが如し」と。
詩に曰く「神の格るは、度るべからず、矧んや射うべけんや」と。
夫れ微の顕なる、誠の揜うべからざるは、此くの如きかな。
誠なる者は自ら成るなり。
而して道は自ら道びくなり。
誠なる者は物の終始なり。
誠ならざれば物なし。
是の故に君子はこれを誠にするを貴しと為す。
誠なる者は自ら己れを成すのみに非ざるなり、物を成す所以なり。
己れを成すは仁なり。
物を成すは知なり。
性の徳なり。
外内を合するの道なり。
故に時にこれを措きて宜しきなり。
故に至誠は息むことなし。
息まざれば則ち久しく、久しければ則ち徴あり。
徴あれば則ち悠遠なり、悠遠なれば則ち博厚なり、
博厚なれば則ち高明なり。
博厚は物を載する所以なり、高明は物を覆う所以なり、
悠久は物を成す所以なり。
博厚は地に配し、高明は天に配し、悠久は疆りなし。
此くの如き者は、見さずして章われ、
動かさずして変じ、為す無くして成る。
天地の道は、壱言にして尽くすべきなり。
その物たる弐ならざれば、則ちその物を生ずること測られず。
天地の道は、博きなり、厚きなり、高きなり、明らかなり、久しきなり。
今夫れ天は、斯の昭昭の多きなり。
その窮まりなきに及びては、日月星辰繋り、万物も覆わる。
今夫れ地は、一撮土の多きなり。
その広厚なるに及びては、華嶽を載せて重しとせず、
河海を振めて洩らさず、万物も載る。
今夫れ山は、一巻石の多きなり。
その広大なるに及びては、草木これに生じ、
禽獣これに居り、宝蔵興る。
今夫れ水は、一勺の多きなり。
その測られざるに及びては、黿鼉鮫竜魚鼈生じ、貨財殖す。
詩に曰く「惟れ天の命、於穆として已まず」と。
蓋し天の天たる所以を曰うなり。
「於乎、不いに顕かなり、文王の徳の純なる」と。
蓋し文王の文たる所以を曰うなり。
純も亦た已まず。
大なるかな、聖人の道。
洋洋乎として万物を発育し、峻くして天に極る。
優優として大なるかな。
礼儀三百、威儀三千、その人を待ちて而して後に行なわる。
故に曰く「苟くも至徳ならざれば、至道は凝らず」と。
故に君子は、徳性を尊びて問学に道り、
広大を致して精微を尽くし、高明を極めて中庸に道り、
故きを温めて新しきを知り、敦厚にして以て礼を崇ぶ。
是の故に上に居りて驕らず、下と為りて倍かず、
国に道あれば、その言以て興すに足り、
国に道なければ、その黙以て容れらるるに足る。
詩に曰く「既に明にして且つ哲、以てその身を保つ」と。
其れ此れをこれ謂うか。
子曰く「愚にして自ら用うることを好み、
賤にして自ら専らにすることを好み、
今の世に生まれて古えの道に反る。
此くの如き者は、烖いその身に及ぶ者なり」と。
天子に非ざれば礼を議せず、度を制せず、文を考えず。
今は天下、車は軌を同じくし、書は文を同じくし、行ないは倫を同じくす。
その位ありと雖も、苟くもその徳なければ、敢えて礼楽を作らず。
その徳ありと雖も、苟くもその位なければ、亦た敢えて礼楽を作らず。
子曰く、「吾れ夏の礼を説く、杞は徴とするに足らざるなり。
吾れ殷の礼を学ぶ、宋の存するあり。
吾れ周の礼を学ぶ、今これを用う。
吾れは周に従わん」と。
天下に王として三重あれば、其れ過ち寡なからんか。
上なる者は、善しと雖も徴なく、徴なければ信ならず、
信ならざれば民従わず。
下なる者は、善しと雖も尊からず、尊からざれば信ならず、
信ならざれば民従わず。
故に君子の道は、諸れを身に本づけ、諸れを庶民に徴し、
諸れを三王に考えて繆らず、諸れを天地に建てて悖らず、
諸れを鬼神に質して疑いなく、百世以て聖人を俟ちて惑わず。
諸れを鬼神に質して疑いなきは、天を知るなり。
百世以て聖人を俟ちて惑わざるは、人を知るなり。
是の故に君子は、動きて世々天下の道となり、
行ないて世々天下の法と為り、
言いて世々天下の則と為る。
これに遠ざかれば則ち望むあり、これに近づけば則ち厭わず。
詩に曰く「彼に在りて悪まるることなく、此に在りても射わるることなし。
庶幾くは夙夜、以て永く誉れを終えん」と。
君子未だ此くの如くならずして、而も蚤く天下に誉れある者はあらざるなり。
仲尼は尭・舜を祖述し、文・武を憲章す。
上は天時に律り、下は水土に襲る。
辟えば天地の持載せざることなく、覆幬せざることなきが如し。
辟えば四時の錯いに行るが如く、日月の代々る明らかなるが如し。
万物並び育して相い害わず、道並び行われて相い悖らず。
小徳は川流れ、大徳は敦化す。
此れ天地の大たる所以なり。
唯だ天下の至聖のみ、能く聡明叡知にして、以て臨むことあるに足り、
寛裕温柔にして以て容るることあるに足り、
発強剛毅にして以て執ることあるに足り、
斉荘中正にして以て敬することあるに足り、
文理密察にして以て別つことあるに足ると為す。
溥博淵泉にして、而してこれを出だす。
溥博は天の如く、淵泉は淵の如し。
見れて民敬せざること莫く、言いて民信ぜざること莫く、
行ないて民説ばざること莫し。
是を以て声名は中国に洋溢し、施きて蛮貊に及ぶ。
舟車の至る所、人力の通ずる所、天の覆う所、地の載する所、
日月の照らす所、霜露の隊つる所、凡そ血気ある者は、尊親せざること莫し。
故に天に配すと曰う。
唯だ天下の至誠のみ、能く天下の大経を経綸し、
天下の大本を立て、天地の化育を知ると為す。
夫れ焉くんぞ倚る所あらん。
肫肫として其れ仁なり、淵淵として其れ淵なり、浩浩として其れ天なり。
苟くも固に聡明聖知にして天徳に達する者ならざれば、
其れ孰か能くこれを知らん。
詩に曰く「錦を衣て絅を尚う」と。
その文の著わるるを悪むなり。
故に君子の道は、闇然として而も日々に章かに、
小人の道は、的然として而も日々に亡ぶ。
君子の道は、淡くして厭われず、簡にして文あり、温にして理あり。
遠きの近きことを知り、風の自ることを知り、
微の顕なることを知れば、与て徳に入るべし。
詩に云う「潜みて伏するも、亦た孔だこれ昭かなり」と。
故に君子は内に省みて疚しからず、志に悪むことなし。
君子の及ぶべからざる所の者は、其れ唯だ人の見ざる所か。
詩に云う「爾の室に在るを相るに、尚わくは屋漏に愧じざれ」と。
故に君子は動かずして而も敬せられ、言わずして而も信ぜらる。
詩に曰く「奏仮するに言なく、時れ争いあること靡し」と。
是の故に君子は賞せずして民勧み、怒らずして民は鈇鉞よりも威る。
詩に曰く「不いに顕らかなり惟れ徳、百辟其れこれに刑る」と。
是の故に君子は篤恭にして天下平らかなり。
詩に曰く「予れ明徳を懐う、声と色とを大にせず」と。
子曰く「声色の以て民を化するに於けるは、末なり」と。
詩に曰く「徳の輶きこと毛の如し」と。
毛は猶お倫あり。
「上天の載は、声も無く臭も無し」
至れるかな。
================================
凡例
================================
天の命ずるをこれ性と謂う。
性に率うをこれ道と謂う。
道を脩むるをこれ教と謂う。
道なる者は、須臾も離るべからざるなり。
離るべきは道に非ざるなり。
是の故に君子はその睹ざる所に戒慎し、その聞かざる所に恐懼す。
隠れたるより見わるるは莫く、微かなるより顕わるるは莫し。
故に君子はその独を慎むなり。
喜怒哀楽の未だ発せざる、これを中と謂う。
発して皆な節に中る、これを和と謂う。
中なる者は天下の大本なり。
和なる者は天下の達道なり。
中和を致して、天地位し、万物育す。
仲尼曰く「君子は中庸し、小人は中庸に反す。
君子の中庸は、君子にして時に中すればなり。
小人の中庸に反するは、小人にして忌憚するなければなり」と。
子曰く「中庸は其れ至れるかな。
民能くする鮮きこと久し」と。
子曰く「道の行なわれざるや、我これを知れり。
知者はこれに過ぎ、愚者は及ばざるなり。
道の明らかならざるや、我これを知れり。
賢者はこれに過ぎ、不肖者は及ばざるなり。
人は飲食せざるもの莫きも、能く味を知るもの鮮きなり」と。
子曰く「道は其れ行なわれざるかな」と。
子曰く「舜は其れ大知なるか。
舜は問うことを好み、而して邇言を察することを好み、
悪を隠して善を揚げ、その両端を執りて、その中を民に用う。
それ斯を以て舜と為すか」と。
子曰く「人は皆な予は知ありと曰うも、
駆りて諸れを罟擭陥阱の中に納れて、これを避くるを知ること莫きなり。
人は皆な予は知ありと曰うも、
中庸を択びて、期月も守ること能わざるなり」と。
子曰く「回の人と為りや、中庸を択び、
一善を得れば、則ち拳拳服膺して、これを失わず」と。
子曰く「天下国家も均しくすべきなり。
爵禄も辞すべきなり。
白刃も踏むべきなり。
中庸は能くすべからざるなり」と。
子路、強を問う。
子曰く「南方の強か、北方の強か、抑いは而の強か。
寛柔以て教え、無道にも報いざるは、南方の強なり。
君子これに居る。
金革を衽とし、死して厭わざるは、北方の強なり。
而の強者これに居る。
故に君子は和して流れず、強なるかな矯たり。
中立して倚らず、強なるかな矯たり。
国に道あるときは塞を変ぜず、強なるかな矯たり。
国に道なきときも死に至るまで変ぜず、強なるかな矯たり」と。
子曰く「隠れたるを索め怪しきを行なうは、
後世に述ぶること有らんも、吾れはこれを為さず。
君子は道に遵いて行なう。
半塗にして廃するも、吾れは已むこと能わず。
君子は中庸に依る。
世を遯れて知られざるも悔いざるは、唯だ聖者のみこれを能くす」と。
君子の道は、費にして隠なり。
夫婦の愚も、以て与り知るべきも、その至れるに及んでは、
聖人と雖も、亦た知らざる所あり。
夫婦の不肖も、以て能く行なうべきも、その至れるに及んでは、
聖人と雖も、亦た能くせざる所あり。
天地の大なるも、人猶お憾む所あり。
故に君子大を語れば、天下能く載すること莫し。
小を語れば、天下能く破ること莫し。
詩に云う「鳶飛んで天に戻り、魚淵に踊る」と。
その上下に察るを言うなり。
君子の道は、端を夫婦に造め、その至れるに及んでは、天地にも察るなり。
子曰く「道は人に遠からず。
人の道を為して人に遠きは、以て道と為すべからず。
詩に云う「柯を伐り柯を伐る、その則遠からず」と。
柯を執りて以て柯を伐る、睨してこれを視るも、猶お以て遠しと為す。
故に君子は人を以て人を治め、改むるのみ。
忠恕は道を違ること遠からず。
諸れを己れに施して願わざれば、亦た人に施すこと勿かれ。
君子の道は四あり。
丘、未だ一をも能くせず。
子に求むる所、以て父に事うること、未だ能くせざるなり。
臣に求むる所、以て君に事うること、未だ能くせざるなり。
弟に求むる所、以て兄に事うること、未だ能くせざるなり。
朋友に求むる所、先ずこれを施すこと、未だ能くせざるなり。
庸徳をこれ行ない、庸言をこれ謹しみ、
足らざる所あれば、敢えて勉めずんばあらず、余りあれば敢えて尽くさず。
言は行を顧み、行は言を顧みる。
君子胡んぞ慥慥爾たらざらん」と。
君子はその位に素して行ない、その外を願わず。
富貴に素しては富貴に行ない、貧賤に素しては貧賤に行ない、
夷狄に素しては夷狄に行ない、患難に素しては患難に行なう。
君子は入るとして自得せざることなし。
上位に在りては下を陵がず、下位に在りては上を援かず、
己れを正しくして人に求めざれば、則ち怨みなし。
上は天を怨みず、下は人を尤めず。
故に君子は易に居りて以て命を俟ち、小人は険を行ないて以て幸を徼む。
子曰く「射は君子に似たること有り。
諸れを正鵠に失すれば、反って諸れをその身に求む」と。
君子の道は、辟えば遠きに行くに、必ず邇きよりするが如く、
辟えば高きに登るに、必ず卑きよりするが如し。
詩に曰く「妻子好合すること、瑟琴を鼓するが如し。
兄弟既に翕い、和楽して且つ耽しむ。
爾が室家に宜しく、爾が妻帑を楽しましむ」と。
子曰く「父母は其れ順ならんか」と。
子曰く「舜は其れ大孝なるかな。
徳は聖人たり、尊は天子たり、富は四海の内を有ち、
宗廟これを饗け、子孫これを保つ」と。
故に大徳は必ずその位を得、必ずその禄を得、
必ずその名を得、必ずその寿を得。
故に天の物を生ずるは、必ずその材に因りて篤くす。
故に栽つ者はこれを培い、傾く者はこれを覆えす。
詩に曰く「嘉楽の君子、憲憲たる令徳あり、
民に宜しく人に宜しく、禄を天に受く。
保佑してこれに命じ、天よりこれを申ぬ」と。
故に大徳の者は、必ず命を受く。
子曰く「憂いなき者は、其れ唯だ文王なるかな。
王季を以て父と為し、武王を以て子と為し、
父これを作り、子これを述ぶ」と。
武王は、大王・王季・文王の緒を纘ぎ、
壱たび戎衣して天下を有ち、身は天下の顕名を失わず。
尊は天子たり、富は四海の内を有ち、
宗廟これを饗け、子孫これを保つ。
武王は末に命を受く。
周公は文・武の徳を成し、大王・王季を追王し、
上、先公を祀るに天子の礼を以てす。
斯の礼や、諸侯・大夫及び士・庶人に達す。
父は大夫たり、子は士たらば、葬るに大夫を以てし、祭るに士を以てす。
父は士たり、子は大夫たらば、葬るに士を以てし、祭るに大夫を以てす。
期の喪は大夫に達し、三年の喪は天子に達す。
父母の喪は、貴賤となく一なり。
子曰く「武王・周公は、其れ達孝なるかな。
夫れ孝とは、善く人の志を継ぎ、善く人の事を述ぶる者なり」と。
春秋にはその祖廟を脩め、その宗器を陳ね、
その裳衣を設け、その時食を薦む。
宗廟の礼は、昭穆を序する所以なり。
爵を序するは、貴賤を弁ずる所以なり。
事を序するは、賢を弁する所以なり。
旅酬に下の上の為めにするは、賤に逮ぼす所以なり。
燕毛は、歯を序する所以なり。
その位を践み、その礼を行ない、その楽を奏し、
その尊ぶ所を敬し、その親しむ所を愛し、
死に事うること生に事うるが如くし、
亡に事うること存に事うるが如くするは、孝の至りなり。
郊社の礼は、上帝に事うる所以なり。
宗廟の礼は、その先を祀る所以なり。
郊社の礼・禘嘗の義に明らかなれば、
国を治むること其れ諸れを掌に示るが如きか。
哀公、政を問う。
子曰く「文・武の政は、布きて方策に在り。
その人存すれば、則ちその政挙がり、その人亡ければ、則ちその政息む。
人道は政を敏め、地道は樹を敏む。
夫れ政なる者は蒲盧なり」と。
故に政を為すは人に在り。
人を取るには身を以てし、身を脩むるには道を以てし、
道を脩むるには仁を以てす。
仁とは人なり、親を親しむを大と為す。
義とは宜なり、賢を尊ぶを大と為す。
親を親しむの殺、賢を尊ぶの等は、礼の生ずる所なり。
故に君子は以て身を脩めざるべからず。
身を脩めんと思わば、以て親に事えざるべからず。
親に事えんと思わば、以て人知らざるべからず。
人を知らんと思わば、以て天を知らざるべからず。
天下の達道は五、これを行なう所以の者は三。
曰く、君臣なり、父子なり、夫婦なり、昆弟なり、朋友の交なり。
五者は天下の達道なり。
知・仁・勇の三者は、天下の達徳なり。
これを行なう所以の者なり。
或いは生まれながらにしてこれを知り、或いは学んでこれを知り、
或いは困しんでこれを知る。
そのこれを知るに及んでは、一なり。
或いは安んじてこれを行ない、或いは利としてこれを行ない、
或いは勉強してこれを行なう。
その功を成すに及んでは、一なり。
子曰く「学を好むは知に近し。
力めて行なうは仁に近し。
恥を知るは勇に近し」と。
斯の三者を知れば、則ち身を脩むる所以を知る。
身を脩むる所以を知れば、則ち人を治むる所以を知る。
人を治むる所以を知れば、則ち天下国家を治むる所以を知る。
凡そ天下国家を為むるに、九経あり。
曰く、身を脩むるなり、賢を尊ぶなり、親を親しむなり、
大臣を敬するなり、群臣を体するなり、庶民を子しむなり、
百工を来うなり、遠人を柔ぐるなり、諸侯を懐くるなり。
身を脩むれば、則ち道立つ。
賢を尊べば、則ち惑わず。
親を親しめば、則ち諸父・昆弟怨みず。
大臣を敬すれば、則ち眩わず。
群臣を体すれば、則ち報礼重し。
庶民を子しめば、則ち百姓勧む。
百工を来えば、則ち財用足る。
遠人を柔ぐれば、則ち四方これに帰す。
諸侯を懐くれば、則ち天下これを畏る。
斉明盛服して、礼に非ざれば動かざるは、身を脩むる所以なり。
讒を去り色を遠ざけ、貨を賤しみて徳を尊ぶは、賢を勧むる所以なり。
その位を尊くしその禄を重くし、その好悪を同じくするは、
親を勧むる所以なり。
官盛んにして任使せしむるは、大臣を勧むる所以なり。
忠信にして禄を重くするは、士を勧むる所以なり。
時に使いて薄く斂むるは、百姓を勧むる所以なり。
日に省み月に試みて、既稟事に称うは、百工を勧むる所以なり。
往くを送り来たるを迎え、善を嘉して不能を矜むは、遠人を柔ぐる所以なり。
絶世を継ぎ廃国を挙げ、乱れたるを治め危うきを持し、
朝聘は時を以てせしめ、往くを厚くして来たるを薄くするは、
諸侯を懐くる所以なり。
凡そ天下国家を為むるに、九経あり。
これを行なう所以の者は一なり。
凡そ事は予めすれば則ち立ち、予めせざれば則ち廃す。
言前に定まれば則ち跲かず、事前に定まれば則ち困まず、
行ない前に定まれば則ち疚まず、道前に定まれば則ち窮せず。
下位に在りて上に獲られざれば、民は得て治むべからず。
上に獲らるるに道あり、朋友に信ぜられざれば、上に獲られず。
朋友に信ぜらるるに道あり、親に順ならざれば、朋友に信ぜられず。
親に順なるに道あり、諸れを身に反みて誠ならざれば、親に順ならず。
身を誠にするに道あり、善に明らかならざれば、身に誠ならず。
誠なる者は、天の道なり。
これを誠にする者は、人の道なり。
誠なる者は、勉めずして中たり、思わずして得、
従容として道に中たる、聖人なり。
これを誠にする者は、善を択びて固くこれを執る者なり。
博くこれを学び、審らかにこれを問い、慎みてこれを思い、
明らかにこれを弁じ、篤くこれを行なう。
学ばざることあれば、これを学びて能くせざれば措かざるなり。
問わざることあれば、これを問いて知らざれば措かざるなり。
思わざることあれば、これを思いて得ざれば措かざるなり。
弁ぜらることあれば、これを弁じて明らかならざれば措かざるなり。
行なわざることあれば、これを行ないて篤からざれば措かざるなり。
人一たびしてこれを能くすれば、己れはこれを百たびす。
人十たびしてこれを能くすれば、己れはこれを千たびす。
果たして此の道を能くすれば、
愚なりと雖も必ず明らかに、柔なりと雖も必ず強からん。
誠なる自り明らかなる、これを性と謂う。
明らかなる自り誠なる、これを教えと謂う。
誠なれば則ち明らかなり、明らかなれば則ち誠なり。
唯だ天下の至誠のみ、能くその性を尽くすと為す。
能くその性を尽くせば、則ち能く人の性を尽くす。
能く人の性を尽くせば、則ち能く物の性を尽くす。
能く物の性を尽くせば、則ち以て天地の化育を賛くべし。
以て天地の化育を賛くべくんば、則ち以て天地と参なるべし。
その次は曲を致す。
曲に能く誠あり。
誠なれば則ち形われ、形われば則ち著るしく、
著るしければ則ち明らかに、明らかなれば則ち動かし、
動かせば則ち変じ、変ずれば則ち化す。
唯だ天下の至誠のみ、能く化すると為す。
至誠の道は、以て前知すべし。
国家将に興らんとすれば、必ず禎祥あり。
国家将に亡びんとすれば、必ず妖孽あり。
蓍亀に見われ、四体に動く。
禍福将に至らんとすれば、
善も必ず先にこれを知り、不善も必ず先にこれを知る。
故に至誠は神の如し。
子曰く「鬼神の徳たる、其れ盛んなるかな。
これを視れども見えず、これを聴けども聞こえず、物を体して遺すべからず。
天下の人をして、斉明盛服して、以て祭祀を承けしむ。
洋洋乎として、その上に在るが如く、その左右に在るが如し」と。
詩に曰く「神の格るは、度るべからず、矧んや射うべけんや」と。
夫れ微の顕なる、誠の揜うべからざるは、此くの如きかな。
誠なる者は自ら成るなり。
而して道は自ら道びくなり。
誠なる者は物の終始なり。
誠ならざれば物なし。
是の故に君子はこれを誠にするを貴しと為す。
誠なる者は自ら己れを成すのみに非ざるなり、物を成す所以なり。
己れを成すは仁なり。
物を成すは知なり。
性の徳なり。
外内を合するの道なり。
故に時にこれを措きて宜しきなり。
故に至誠は息むことなし。
息まざれば則ち久しく、久しければ則ち徴あり。
徴あれば則ち悠遠なり、悠遠なれば則ち博厚なり、
博厚なれば則ち高明なり。
博厚は物を載する所以なり、高明は物を覆う所以なり、
悠久は物を成す所以なり。
博厚は地に配し、高明は天に配し、悠久は疆りなし。
此くの如き者は、見さずして章われ、
動かさずして変じ、為す無くして成る。
天地の道は、壱言にして尽くすべきなり。
その物たる弐ならざれば、則ちその物を生ずること測られず。
天地の道は、博きなり、厚きなり、高きなり、明らかなり、久しきなり。
今夫れ天は、斯の昭昭の多きなり。
その窮まりなきに及びては、日月星辰繋り、万物も覆わる。
今夫れ地は、一撮土の多きなり。
その広厚なるに及びては、華嶽を載せて重しとせず、
河海を振めて洩らさず、万物も載る。
今夫れ山は、一巻石の多きなり。
その広大なるに及びては、草木これに生じ、
禽獣これに居り、宝蔵興る。
今夫れ水は、一勺の多きなり。
その測られざるに及びては、黿鼉鮫竜魚鼈生じ、貨財殖す。
詩に曰く「惟れ天の命、於穆として已まず」と。
蓋し天の天たる所以を曰うなり。
「於乎、不いに顕かなり、文王の徳の純なる」と。
蓋し文王の文たる所以を曰うなり。
純も亦た已まず。
大なるかな、聖人の道。
洋洋乎として万物を発育し、峻くして天に極る。
優優として大なるかな。
礼儀三百、威儀三千、その人を待ちて而して後に行なわる。
故に曰く「苟くも至徳ならざれば、至道は凝らず」と。
故に君子は、徳性を尊びて問学に道り、
広大を致して精微を尽くし、高明を極めて中庸に道り、
故きを温めて新しきを知り、敦厚にして以て礼を崇ぶ。
是の故に上に居りて驕らず、下と為りて倍かず、
国に道あれば、その言以て興すに足り、
国に道なければ、その黙以て容れらるるに足る。
詩に曰く「既に明にして且つ哲、以てその身を保つ」と。
其れ此れをこれ謂うか。
子曰く「愚にして自ら用うることを好み、
賤にして自ら専らにすることを好み、
今の世に生まれて古えの道に反る。
此くの如き者は、烖いその身に及ぶ者なり」と。
天子に非ざれば礼を議せず、度を制せず、文を考えず。
今は天下、車は軌を同じくし、書は文を同じくし、行ないは倫を同じくす。
その位ありと雖も、苟くもその徳なければ、敢えて礼楽を作らず。
その徳ありと雖も、苟くもその位なければ、亦た敢えて礼楽を作らず。
子曰く、「吾れ夏の礼を説く、杞は徴とするに足らざるなり。
吾れ殷の礼を学ぶ、宋の存するあり。
吾れ周の礼を学ぶ、今これを用う。
吾れは周に従わん」と。
天下に王として三重あれば、其れ過ち寡なからんか。
上なる者は、善しと雖も徴なく、徴なければ信ならず、
信ならざれば民従わず。
下なる者は、善しと雖も尊からず、尊からざれば信ならず、
信ならざれば民従わず。
故に君子の道は、諸れを身に本づけ、諸れを庶民に徴し、
諸れを三王に考えて繆らず、諸れを天地に建てて悖らず、
諸れを鬼神に質して疑いなく、百世以て聖人を俟ちて惑わず。
諸れを鬼神に質して疑いなきは、天を知るなり。
百世以て聖人を俟ちて惑わざるは、人を知るなり。
是の故に君子は、動きて世々天下の道となり、
行ないて世々天下の法と為り、
言いて世々天下の則と為る。
これに遠ざかれば則ち望むあり、これに近づけば則ち厭わず。
詩に曰く「彼に在りて悪まるることなく、此に在りても射わるることなし。
庶幾くは夙夜、以て永く誉れを終えん」と。
君子未だ此くの如くならずして、而も蚤く天下に誉れある者はあらざるなり。
仲尼は尭・舜を祖述し、文・武を憲章す。
上は天時に律り、下は水土に襲る。
辟えば天地の持載せざることなく、覆幬せざることなきが如し。
辟えば四時の錯いに行るが如く、日月の代々る明らかなるが如し。
万物並び育して相い害わず、道並び行われて相い悖らず。
小徳は川流れ、大徳は敦化す。
此れ天地の大たる所以なり。
唯だ天下の至聖のみ、能く聡明叡知にして、以て臨むことあるに足り、
寛裕温柔にして以て容るることあるに足り、
発強剛毅にして以て執ることあるに足り、
斉荘中正にして以て敬することあるに足り、
文理密察にして以て別つことあるに足ると為す。
溥博淵泉にして、而してこれを出だす。
溥博は天の如く、淵泉は淵の如し。
見れて民敬せざること莫く、言いて民信ぜざること莫く、
行ないて民説ばざること莫し。
是を以て声名は中国に洋溢し、施きて蛮貊に及ぶ。
舟車の至る所、人力の通ずる所、天の覆う所、地の載する所、
日月の照らす所、霜露の隊つる所、凡そ血気ある者は、尊親せざること莫し。
故に天に配すと曰う。
唯だ天下の至誠のみ、能く天下の大経を経綸し、
天下の大本を立て、天地の化育を知ると為す。
夫れ焉くんぞ倚る所あらん。
肫肫として其れ仁なり、淵淵として其れ淵なり、浩浩として其れ天なり。
苟くも固に聡明聖知にして天徳に達する者ならざれば、
其れ孰か能くこれを知らん。
詩に曰く「錦を衣て絅を尚う」と。
その文の著わるるを悪むなり。
故に君子の道は、闇然として而も日々に章かに、
小人の道は、的然として而も日々に亡ぶ。
君子の道は、淡くして厭われず、簡にして文あり、温にして理あり。
遠きの近きことを知り、風の自ることを知り、
微の顕なることを知れば、与て徳に入るべし。
詩に云う「潜みて伏するも、亦た孔だこれ昭かなり」と。
故に君子は内に省みて疚しからず、志に悪むことなし。
君子の及ぶべからざる所の者は、其れ唯だ人の見ざる所か。
詩に云う「爾の室に在るを相るに、尚わくは屋漏に愧じざれ」と。
故に君子は動かずして而も敬せられ、言わずして而も信ぜらる。
詩に曰く「奏仮するに言なく、時れ争いあること靡し」と。
是の故に君子は賞せずして民勧み、怒らずして民は鈇鉞よりも威る。
詩に曰く「不いに顕らかなり惟れ徳、百辟其れこれに刑る」と。
是の故に君子は篤恭にして天下平らかなり。
詩に曰く「予れ明徳を懐う、声と色とを大にせず」と。
子曰く「声色の以て民を化するに於けるは、末なり」と。
詩に曰く「徳の輶きこと毛の如し」と。
毛は猶お倫あり。
「上天の載は、声も無く臭も無し」
至れるかな。
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凡例
- 読み下し文は金谷治(訳注)『大学・中庸』(岩波文庫)より。
- 読みやすさを考慮し、適宜改行をしています。
- 一部、環境依存文字を使っていますので、文字化けする可能性があります。
- 誤字・脱字等の可能性があります。
『大学』『中庸』
最近、『大学』『中庸』を読んでいます。
『大学』『中庸』は、儒教の四書のうちの2つ。
ちなみに四書とは、『大学』『中庸』『論語』『孟子』です。
しかし、読みづらい…。
漢文の素養が少ないとか、意味がわからない言葉がたくさん出てくる、ということは脇に置いて…。
『大学』『中庸』ともに、いくつかの章句に分かたれ、その章句について、原文、読み下し文、注釈、口語訳(あるいは通解)と書かれているため、全体の流れがなかなかつかめませんでした。
『論語』ならば、それぞれの章句がほぼ独立しているため、このような書き方の方が読みやすいと思うのですが、『大学』『中庸』については、全体の流れがあるので、もう少しわかりやすいものがあれば、と考えながら読んでいました。
まず、購入した本は講談社学術文庫の『大学』と『中庸』。
講談社学術文庫での発刊年を見ると、『大学』『中庸』ともに1983年ですが、底本については、『大学』が1916年、『中庸』が1918年の発刊。
漢字や仮名遣いは現在式に改められてはいるものの、注釈や通解においても文語調となっている箇所が多々あり、読みづらい…。
まあ、これは文語調に慣れていないせいですが…。
しかし、一番読みづらいと感じたのは、この『大学』『中庸』の書物の出典にあるかと思ってます。
もともとは、『大学』『中庸』ともに『礼記』という書の一篇とのこと。
そして、そのなかで『大学』『中庸』ともに一躍有名になったのは、朱熹(朱子)が章句を定めて定本をつくり、『論語』『孟子』とともに四書と定めたからです。
『大学』『中庸』には、朱熹の序文やちょっとした解説なんかも入っています。
講談社学術文庫版の『大学』『中庸』は、この朱熹の定本をもとに訳注がつけられています。
もともとの『礼記』の一篇の「大学」「中庸」に、朱熹の序文や解説が入り、その訳注を読むことになるわけです。
そして、現在手元にある訳注には、「朱熹がこういっていることは正しい」とか「ここは違うだろう」というものが入ってきます。
つまり、「もともとの『大学』(あるいは『中庸』)が伝えたいこと」と「朱熹が伝えたいこと」と「訳注者が伝えたいこと」の3つが入り乱れています。
これが読みにくさの原因ではないかと考えています。
まあ、裏を返せば、私自身が整理できていない、ということなのですが…。
一方で、岩波文庫版の『大学・中庸』は、朱熹の定本も参考にはしていますが、基本的に『礼記』を元の訳注となっています。
こちらの発行は1989年と比較的新しく、私にとっては講談社学術文庫版よりは読みやすく感じました。
今回、『大学』『中庸』ともに初めて読んだのですが、現代にも通用するような考え方です。
宗教的なものはあまり関心はありませんが、儒教はなかなか面白いものだと思いました。
ちょっと自分の中で整理していきたいと思います。
『大学』『中庸』は、儒教の四書のうちの2つ。
ちなみに四書とは、『大学』『中庸』『論語』『孟子』です。
しかし、読みづらい…。
漢文の素養が少ないとか、意味がわからない言葉がたくさん出てくる、ということは脇に置いて…。
『大学』『中庸』ともに、いくつかの章句に分かたれ、その章句について、原文、読み下し文、注釈、口語訳(あるいは通解)と書かれているため、全体の流れがなかなかつかめませんでした。
『論語』ならば、それぞれの章句がほぼ独立しているため、このような書き方の方が読みやすいと思うのですが、『大学』『中庸』については、全体の流れがあるので、もう少しわかりやすいものがあれば、と考えながら読んでいました。
まず、購入した本は講談社学術文庫の『大学』と『中庸』。
講談社学術文庫での発刊年を見ると、『大学』『中庸』ともに1983年ですが、底本については、『大学』が1916年、『中庸』が1918年の発刊。
漢字や仮名遣いは現在式に改められてはいるものの、注釈や通解においても文語調となっている箇所が多々あり、読みづらい…。
まあ、これは文語調に慣れていないせいですが…。
しかし、一番読みづらいと感じたのは、この『大学』『中庸』の書物の出典にあるかと思ってます。
もともとは、『大学』『中庸』ともに『礼記』という書の一篇とのこと。
そして、そのなかで『大学』『中庸』ともに一躍有名になったのは、朱熹(朱子)が章句を定めて定本をつくり、『論語』『孟子』とともに四書と定めたからです。
『大学』『中庸』には、朱熹の序文やちょっとした解説なんかも入っています。
講談社学術文庫版の『大学』『中庸』は、この朱熹の定本をもとに訳注がつけられています。
もともとの『礼記』の一篇の「大学」「中庸」に、朱熹の序文や解説が入り、その訳注を読むことになるわけです。
そして、現在手元にある訳注には、「朱熹がこういっていることは正しい」とか「ここは違うだろう」というものが入ってきます。
つまり、「もともとの『大学』(あるいは『中庸』)が伝えたいこと」と「朱熹が伝えたいこと」と「訳注者が伝えたいこと」の3つが入り乱れています。
これが読みにくさの原因ではないかと考えています。
まあ、裏を返せば、私自身が整理できていない、ということなのですが…。
一方で、岩波文庫版の『大学・中庸』は、朱熹の定本も参考にはしていますが、基本的に『礼記』を元の訳注となっています。
こちらの発行は1989年と比較的新しく、私にとっては講談社学術文庫版よりは読みやすく感じました。
今回、『大学』『中庸』ともに初めて読んだのですが、現代にも通用するような考え方です。
宗教的なものはあまり関心はありませんが、儒教はなかなか面白いものだと思いました。
ちょっと自分の中で整理していきたいと思います。
2012/05/03
為政第二・11「子曰、温故而知新。~」
温故知新。
故きを温めて新しきを知る。
有名な故事成語、四字熟語です。
その語源ともなっている『論語』の言葉は、
手元の国語辞典によれば、「温故知新」の意味として、
しかし、『論語』の文においては「温故知新」の後に「以て師為る可し」という語句があります。
最近、古典的なものをよく読んでいます。
『論語』をはじめとして、今は儒教の四書つながりで『大学』や『中庸』を読み始めました。
古いものの中には廃れていくものもあります。
しかし、「古典」と言われるものは、何かしらの理由があって長く読み継がれているものです。
古いだけではなく、「読み継がれている」ことに意味があります。
長く続いているもの。
「継続は力なり」とはよく言ったものです。
古いことの中から新しいことを知る。
そういう人は師たるべし。
継続の力を知る人は、その力を活用していける力もある。
師となる資質がある。
私は「温故知新」を、このように理解しています。
故きを温めて新しきを知る。
有名な故事成語、四字熟語です。
その語源ともなっている『論語』の言葉は、
子曰、温故而知新。可以為師矣。というものです。
子曰く、故きを温めて新しきを知る。以て師為る可し。
手元の国語辞典によれば、「温故知新」の意味として、
昔のことを研究してあたらしい真理を見つけること。とありました。
しかし、『論語』の文においては「温故知新」の後に「以て師為る可し」という語句があります。
そういう人こそ人々の師となる資格がある。と。
最近、古典的なものをよく読んでいます。
『論語』をはじめとして、今は儒教の四書つながりで『大学』や『中庸』を読み始めました。
古いものの中には廃れていくものもあります。
しかし、「古典」と言われるものは、何かしらの理由があって長く読み継がれているものです。
古いだけではなく、「読み継がれている」ことに意味があります。
長く続いているもの。
「継続は力なり」とはよく言ったものです。
古いことの中から新しいことを知る。
そういう人は師たるべし。
継続の力を知る人は、その力を活用していける力もある。
師となる資質がある。
私は「温故知新」を、このように理解しています。
2012/05/01
蝶の名前
子どもの頃は、そこそこ植物の名前や昆虫の名前を覚えていたのですが、最近はなかなか思い出すことができません…。
先日、実家に帰っていて、カメラを持って出かけた際、蝶々が花にとまっていたのでそこをパチリ。
なかなかきれいに撮れたのです。
花の名前はアザミ。
特徴ある花で、葉っぱや茎に刺があり、さすがに名前は覚えているのですが、蝶々の名前がわかりませんでした。
「なんとか紋」というように「紋」という字が入っていたかと思うのですが…。
とりあえず、「蝶」「紋」で画像検索をしてみて、似たような蝶を探してみると…、おそらく「ツマグロヒョウモン」の雄かと思われます。
漢字で書くと「褄黒豹紋」。羽の先が黒いヒョウ柄の紋の蝶々です。
ここで、ふと思ったことは、「蝶々」というのは、蝶の複数形?
一匹ならば、「蝶」とすべきですかね?
先日、実家に帰っていて、カメラを持って出かけた際、蝶々が花にとまっていたのでそこをパチリ。
なかなかきれいに撮れたのです。
花の名前はアザミ。
特徴ある花で、葉っぱや茎に刺があり、さすがに名前は覚えているのですが、蝶々の名前がわかりませんでした。
「なんとか紋」というように「紋」という字が入っていたかと思うのですが…。
とりあえず、「蝶」「紋」で画像検索をしてみて、似たような蝶を探してみると…、おそらく「ツマグロヒョウモン」の雄かと思われます。
漢字で書くと「褄黒豹紋」。羽の先が黒いヒョウ柄の紋の蝶々です。
ここで、ふと思ったことは、「蝶々」というのは、蝶の複数形?
一匹ならば、「蝶」とすべきですかね?
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