2012/01/10

月の裏側には何があるのだろうか?

先日、恩田陸さんの『不連続の世界』を読んだ関係で、この連休中に『月の裏側』を読み返していました。


先日の記事では、「『粘着質な水』のイメージが残っている」と書きましたが、読み返してみると「粘着質な水」のイメージはあまり出てきませんでした(^-^;)
代わりにでてきたイメージは、「わもん」のイメージ。

小説全体の印象は「わもん」とは異なりますが、小説の端々にわもん的なものが感じられました。


小説のジャンルとしてはSFあるいはホラーとなるのかもしれませんが、そのどちらともいえないような作品です。

文庫版には山田正紀さんの解説が載っているのですが、そこには、『月の裏側』の単行本の帯には「郷愁の傑作ホラー」というコピーが印刷されていた、ということが書いてありました。

ついでに言うと、先日の記事でPink Floydの『Dark Side of the Moon』にも触れましたが、山田正紀さんの解説のなかで『月の裏側』に「ダークサイド・オブ・ザ・ムーン」というルビがふってあり、私はそこからPink Floydに結び付けていた模様。


この作品の内容が実際にあったならば怖いと思いますが、作品全体としての印象は、ぼんやりとした懐かしさや寂しさを感じさせる小説です。行ってみたいけれどなかなか足が向かない、というような感じ。

どなたの詩か失念してしまいましたが、「故郷は遠きにありて思うもの」というフレーズが浮かんできます。


私の好きな作家は、自分とは視点が異なるというか、「うまい表現だなぁ」と思うフレーズがたくさんある作家です。恩田陸さんはそんな作家のひとり。

以下、自分が面白いなと思う文章やフレーズを挙げていきつつ、その文章・フレーズについて自分が思ったことを記していきます。





「樹木っていうのは時間だと思ってたんですが――柳は違いますね。やっぱり、柳は風ですね。柳は、風が見える。空気が見える。線ですね、線でできてる。」
柳には風がつきものだというイメージがあるが、その前の「樹木っていうのは時間だと思ってた」というのが新鮮です。たしかに樹齢何百年とか、年輪とか、落葉樹ならば毎年葉を落としてまた生えてくるとか、桜も咲いては散るとか。樹木が時間であると表現に、ほぅなるほど、と思いました。

糸杉というのはどうもぞっとしない木だ。燃えさかる炎のような形の樹木が古い木造家屋を取り囲むさまは、黒い炎が家を包み、天への呪詛を放っているように見える。ゴッホが好んでこの木を描いた気持ちも分からなくはない。
糸杉という木は、見たことはあるのかもしれませんが、ぱっと思い浮かびません。引用内で言及されているゴッホの絵のイメージが浮かびます。ゴッホが糸杉を描いていたこと、そしてそれは炎に似ているということは何かで読んだ記憶がありますが、「天への呪詛を放って」いるから好んで描いたのかどうか、に少し引っかかりました。

「オセロ・ゲームって、なんだか声がしますよねー」
「オセロ・ゲーム」の名の由来は、シェイクスピアの『オセロ―』から取られているということを考えれば、多聞のこの発言は納得がいきます。「手のひらを返す」「裏切り」「白黒つける」など、さまざまなイメージが膨らんだフレーズ。

箭納倉は静かな印象を与える街だと思っていたが、船頭の言葉を聞いているうちにその理由に思い当たった。語尾が柔らかなのだ。九州の言葉といえば、博多や熊本、鹿児島といった男性的な言葉が思い浮かぶ。どちらかと言えば、語尾も強い。待合室にいた時も、その方面からの団体客が来ていたが、言葉の語尾に含まれるKeやTaがにぎやかさを醸し出していた。しかし、この土地の人々の言葉は物柔らかで語尾も「も」や「ね」や「な」などが多く、すうっと下がって消えてゆく。
学生時代に言語学を学んでいたためか、こういった言葉には反応してしまいます。「Ke」や「Ta」のような閉鎖音は、「も」「ね」「や」などの鼻濁音・半母音よりも強いのでしょうか。閉鎖音は空気の流れを一旦止めて出す音ですので、勢いがあるのでしょうね。

「もたせといってね。ここで水を押しとどめて、出口で流れが速くなるようにしてあるんだよ。人工的に流れを作って、水中に酸素を取り込みやすくしているんだ。水が少ない時でも、時間をかけて流れるようにしてある。逆に増水した時は多く流れるように上の方が広げてある。ここはどんなに大雨が降っても絶対に溢れないんだよ。ぎりぎりの量まで城下内で保水して、そのキャパを超えた時は有明海に放流する」
「もたせ」に興味を持ちました。機能とデザインが一致しているものは好きです。

高安は磊落で気持ちのいい男だったが、鋭敏な男だった。記者特有の話し方が染み付いている。彼等はとりとめのない雑談というものができない。身に付いた習慣で、話を要約し、確認しながら先に進める。自然と相手の台詞を反復したり、細かいところを確認したがる。特に話の語尾には敏感だ。ニュースソースを特定したいのだろう。その内容が伝聞なのか、直接体験したものなのかにこだわる。こちらの会話の中から一部を抜粋し、『あ、今の台詞使おう』と付箋を付けるところが見えるような気がする時がある。
先ほども語尾に関する引用を挙げましたが、ここでは語尾についての言及もさることながら、「付箋を付ける」というのがいいです。後に、新聞記者である高安の視点から語られる場面の中で、「やがて、私は現実に存在する者たちを『読む』方が面白いことに気付いた」というように、高安が世界を読むように認識していることとリンクしているのが素敵です。

真実は男のものだが、真理は女の中にしかない。男はそれを求めて右往左往するだけだ。
「真実」と「真理」の違いは何でしょうか?

また、それぞれの共同体には、その共同体のコアを表す言葉というのがある。多聞が子供の頃からの経験で学んだことは、ネイティブでない者がある共同体の言葉を学ぶ時、骨を埋める覚悟がない限り、その共同体のコアの言葉を使うべきではない、という教訓だった。多聞のように、いつか去ることが分かっている通過者のとるべきスタンスは決まっている。共同体のルールを熟知しその内側にいるが、共同体のコアには関心を示さないふりをする。これが通過者にとっても、共同体にとっても安心できるスタンスなのだ。
強く共感してしまった部分です。何となく自分のような気がした一節。そしてそれと同時に、自分にはまだ骨を埋める覚悟がないのだと実感した一節です。

空は煮え切らない男の口調のように重い。 そして、重い空のところどころには、煮え切らない男に対してくすぶっている女の不満のような、いらいらしたどす黒い雲が滲んでいた。
男と女。男女の機微には鈍感な私。

「うん。僕も今そう思ってたところ。ここは、凄く闇が濃いね。ずっしりしてて、重量感がある。ちゃんと闇が生きている。東京の闇は薄いからね。夜じたいが薄っぺらだから」
東京や大阪の夜は明るい。田舎の夜はとても暗く濃い。納得いく言葉。

「海兵隊は、その解読部門に、暇だった軍楽隊のメンバーを投入して手伝わせた」
「なるほど。確かに非常時には暇そうな部署よね」 「そしたら、それが大当たりで、凄い成果を上げたんだそうだ」
「へえ」
「それ以来、アメリカの暗号解読のエキスパート養成部門では、適性を見るのに音楽的素養があるかどうかを重視するようになったんだってさ」
暗号解読のために軍楽隊のメンバーが投入されたことを知る。それとともに、音楽的素養が暗号解読に関わるということで、現在学んでいる「わもん」を思い浮かべました。「わもん」では音を聞く。内容が分からなくとも音から入っていける例。

年寄りの家というのは、なぜ小さく感じるのだろう。世界が縮んだような感じ、壁や天井が迫ってきているような感じがするのだ。それは恐らく、彼等の把握している世界がもうそれだけの大きさになってしまっているからだろう。
理由の部分は賛成も反対もしませんが、たしかに年寄りの家というのは小さく感じてしまいます。
私の実家では、父母が住んでいる家と祖父母が住んでいる家が隣り合わせで建っているのですが、祖父母が住んでいる家に行くと、実際の広さよりも狭く感じたものです。この一節を読むまでは気付いていなかったのですが。

恐怖を和らげるには、人に話すのが一番だ。出口の見えない、説明のつかない事件だけに、口にしただけでぐっと肩が軽くなったような気になる。
話すことの利点。そして恐怖を取り除いてあげたいときには話を聞くこと。

「なんていうのかな――その人の輪郭がくっきりして見えるわね。長いつきあいのお客って、当然波長の合う人が多いわけでしょ。だから、初めて面と向かって話した時に、その人からあたしに向かって道が開けているというか、その人の持っている『気』があたしのところに流れてくるような感じがするの」
暗号解読についての引用のところで「わもん」を思い浮かべたためか、ああ「わもん」だ、と感じた一節。

「例えば、赤外線カメラみたいなもの。真っ暗で何も見えない、人間はそれでいいはずよね。実際、能力を超えているんだから。でも、赤外線カメラは違う。闇の中のものも見える。人間の目とは別のアプローチで、目の前の情報を処理しているから。同じように、周囲から受けとる情報を自分の中で処理する時に、通常とは違う組み立て方をする人は、幻ではなく本当に別のものが見えるんじゃないかって。分かる?」
ここでも、「わもん」が思い浮かぶ。「わもん聴覚」。

「男はさ、たまにバラバラな奴もいるけど、だいたい同じ方向向いた矢印がいっぱいぶら下がってるんだよ。でも、女の子って、向きの違う矢印がいっぱいぶら下がってるのね。だから、男は自分の矢印と女の子の矢印の向きを合わせようとするんだけど、女の子の矢印は全部方向が同じわけじゃないから、いつの間にか他の矢印と正面衝突したり立体交差になっちゃってたりする」
男と女の対比。私は「たまにバラバラな奴」の1人かも…。

多聞はふと、恐怖と愛情は似ているな、と思った。ほんの数十分前に起きた目の前の出来事で、自分と藍子は価値観が塗り替えられるほどの恐怖を味わったはずだ。なのに、この会話ののどかさは何だろう。自分たちが話題にすべきことはこんなことではないはずだ。しかし、映画でも小説でも、確かに恐怖は愛情を産むのがセオリーだ。恐怖を一緒に体験することで、愛のエネルギーは増強される。恐怖について語っていると、その反動で愛について語りたくなる。人々は恐怖を語ることで愛を語るのだ。
「吊り橋効果」。何かほかの名前もあったような気がします。
恐怖について語っていると、その反動で愛について語りたくなるならば、その逆はどうでしょうか?

猫の動きは、人形つかいの人形の動きに似ている。しなやかだが、時折やけに作為的にぎくしゃくするのだ。コマ落としで動作が強調されている間、時間が引き伸ばされる。猫の頭の中では、時間が伸び縮みしているのかもしれない。
猫の動きはしなやかですが、作為的にぎくしゃくするイメージはありません。今度猫を見たら観察してみよう。

雨は粒なのに、どうしてこんなにたくさんの線に見えるんだろう。 多聞はその光の線を見ながら、素朴な疑問を覚えた。やっぱり時間って見えるのかな。
点と線。そしてベクトル。

古典を読んでいる時に、一番とまどうのは名前だ。高貴な人間ほど、名前がたくさんある。同一人物なのに、いろいろな呼び名がある。遠回しに住んでいる場所で表すとか、誰それの娘とか。決して直に名前を呼ばないのだ。名前を口にするということは、恐ろしいことだ。口にしたとたんに、何かが動き始める。
名前だけでなく、言葉全般がそうかもしれない。

我々は無意識のうちに他者と同化することを避け、恐れてきた。なぜならば、多様性こそが我々の生物としての戦略だからだ。
(中略)
しかし、自分の生命活動を助けるものを取り入れることをも拒絶するのはなぜだろう? 種の繁栄のためには、互いの細胞を共有できた方が効率がいいのではないだろうか? それなのに、あれだけ激しい拒絶を示すということは、個別の個体を持つということに、もっと重要な意味があるのだ。我々は個々に、誰にも頼らずにそれぞれの可能性を試さねばならないに違いない。それこそが、生物として正しい戦略なのだ。
「我々は個々に、誰にも頼らずにそれぞれの可能性を試さねばならない」
一度きりの人生。しかし、未だ生をしらず。

「僕ね、自分の影が逃げていくところを見たことがある」
私は、影から逃げようとしたことがある。しかしずっと追ってくる。
日陰に入ったらいなくなった。

現代人は情報を食べる生き物なのだ。情報を常に注入していないと、どんどん神経が弛緩してゆき、社会から脱落してゆく。
しかし、食べすぎると身体が動かなくなる。

「糸杉は生命をあらわすのと同時に死の象徴でもあるそうよ。肉体の腐敗を防ぐ力があると考えられていて、ヨーロッパでは墓地に植えられている――この箭納倉にぴったりじゃない? 生と死と――背中合わせでいつもそこにある」
またもや「糸杉」。生と死の象徴。相反するものを包んだものが「郷愁」か、とも思います。

そう簡単に世界は終わらない。そう簡単に生命は終わらない。しぶとくあらゆる手を尽くし、無駄とも無謀とも見える膨大な行為を繰り返し、遥かな時間を積み上げながら人生は続く。
生きる活力ともなるような、生きる気力をそぐような、そんな一節。

明日の世界はどうなるのだろう。どんなふうにこの世界と明日の世界は連続していくのだろう。
胡蝶の夢。

逆上がりができるようになるというのは、少しずつできるようになるわけじゃないですよね。それまでできなかったものが、ある日その一回を境目としてできるようになる。できないうちはとても不思議なわけです。できる人が羨ましいし、どこにその技術の秘密があるのか分からない。次の体育の授業のテストの日が来るまでしじゅう逆上がりのことばかり考えている。それが何かものすごいことのように思える。でも、いったんできてしまうとどうです? 頭の中を占めていた逆上がりは、たちまちその他もろもろのどいうでもいいことの一つになってしまう。
「わもん」における「その技術の秘密」を知りたい。できる人が羨ましい(笑)

彼は鏡だ。彼の瞳は、向かい合う者を映し出す鏡なのだ。彼は自分に映る他人の像に対してなんの評価も働きかけもしない。彼は鏡だから。ただ映し出すことだけが仕事なのだから。
このような人物になりたいとも思いますが、なかなか難しいです。


先日、大阪で開催されたわもん塾に参加したこともあって、再読する中にわもん的なものを見つけたのだと思います。あるいは自分がわもん的なものを探していたのかもしれません。

「無意識共同体」と、『月の裏側』の中での『それ』も何となく似ています。