2017/03/05

「わかる」と「できる」

「わかる」と「できる」は違う、とよく言われる。わかっていてもできないことはたくさんあるし、できていてもわからないこともたくさんある。

では、「わかる」と「できる」の違いは何か?

「わかる」ということは頭で理解している、「できる」ということは身体で理解している、ということもできる。また、「わかる」ということはINPUT、「できる」ということはOUTPUT、ということもできる。

ここではちょっと視点を変えて、言葉の面から考えてみたい。

「わかる」という言葉は「分ける」という言葉と関係している。「わかる」を「分かる」と漢字で書くこともある。「わかる」と似たような意味を持つ言葉として、「理解(する)」とか「分別(がある)」とか、「判断(する)」など、2つ以上のものに分けるような言葉もある。何か対象を分けて、分析して、理解して…、というようなイメージである。

一方「できる」は、漢字で書くと「出来る」と書く。「出で来る」で「出来る」。また「できる」という語には、「作る」という意味もある。料理ができる、作品ができる、といったように。何かいろいろな材料から新しいものを作るという意味でである。

方向のイメージとして、「わかる」は上から下へ、「できる」は下から上へというイメージもある。あるいは、「わかる」は外側から内側へ、「できる」は内側から外側へ、というイメージもある。

「わかる」という言葉から連想されるのは「知識」、それと呼応させると「できる」という言葉から連想されるのは「スキル(技術)」。知識を形容するとき、「深い知識」「浅い知識」という。一方、スキルを形容するときは、「高いスキル(技術)」「低いスキル(技術)」という。

思考力は深め、行動力は高めたい。

2017/03/04

息づかいが激しい

ふとしたことから、「息」を使った慣用句を検索した。さまざまな慣用句がある。(weblio辞書「息の慣用句」

その中のひとつ「息が合う」。意味は、ともに事をする二人以上の間で気分がぴったりと合うことである。

コーチング・スキルのひとつに「ペーシング(pacing)」というのがある。文字通りペースを合わせるである。「息を合わせる」と言い換えることができる。

呼吸を合わす」という言葉もある。相手と調子を合わせることである。「呼吸を計る」ことも必要だろう。

また「息が切れる」という言葉があれば、「息が続く」という言葉もある。「息が切れる」は、物事を長く続けられなくなること、「息が続く」は、物事を長く続けることができること。

息を呑む」と驚くのに、「呼吸を呑み込む」と、物事をうまく行うための微妙な調子を会得する。上手く呑み込めず「息が詰まる」と緊張する。「息を詰める」と「息を凝らす」も同じく緊張する。「詰まる」は自動詞だが、「詰める」「凝らす」は他動詞である。

息筋張る」は怒ることだが、「息精張る」は全力を出すこと。青筋を立てるよりは、精を出した方がいい。

息が長い」は、活動期間や価値を保っている期間が長いという意味である。 冒頭のリンク先の一覧には載っていないが「息が短い」もあるだろう。

息を殺し」ても死なないが、「息の根を止める」と死んでしまう。「息を吹き返す」ことはあるかもしれない。

消息」は「息を消す」と書くが、手紙や便りのことである。「消息を断ち」、「息を潜め」るのは、「息がかかる」のを避けているのかもしれない。

息もつかせず」書いてみたが、そろそろ「(ひと)息つこ」う。「息が弾ん」できた。「息を入れ」ても「息を抜い」ても「息を継い」でも一休み。

一休み ほっと一息 息白し

さて、この記事には「息が通っ」ているのかどうか。

2017/03/03

考えるという行為

いつも、いろいろと考えている。

真面目に考えていることもあれば、不真面目に考えていることもある。

真剣に考えていることもあれば、どうでもいいことも考えていることもある。

「考えていたけれどもできなかった」

「考えてはいるけれども…」

「考えている」

どれも、自分にとっては「考える」ということをしている。

しかし、他の人から見れば、それはわからない。見ただけでは何か考えているのか、何も考えていないのか、わからない。

自分以外の他の人に「考えている/考えていた」ことを示すためには、「考えている/考えていた」ことを表現するしかない。

それは考えたことを話すことかもしれない。絵を描くことかもしれない。行動することかもしれない。

私は「書く」ということを選んだ。

もちろん書くことだけが、考えを表現する手段というわけではない。

また、書いていることは、考えた結果かもしれないし、まだ結論が出ず途中のものかもしれない。

意味のあることかもしれないし、意味のないことかもしれない。

「言葉とか、理論というのは、基本的に他人への伝達手段だからね。言葉で思考していると錯覚するのは、個人の中の複数の人格が、情報や意見を交換し、議論しているような状態か、もしくは、明日の自分のために言葉で思考しておく場合だね」
「明日の自分のために?」
「ああ、簡単にいえば、忘れないためだよ。言葉で思考しておけば、思考の本質にまあまあ近い概念が、言葉として記憶される。言葉というのはデジタル信号だから、時間経過による劣化が比較的少ない。もともと、伝達するために生まれた効率的手段であって、まあ、つまりそれが記号だ」
森博嗣『今はもうない』

2017/03/02

スイッチ・バック


所用があり、大分県の中津に向かった。新幹線で西へ行き小倉駅で降り、日豊本線に乗り換える。ホームで特急ソニックを待った。

列車が到着し、車内へ入ると、「あれっ?」と思った。

ホームに向かって右方向から列車が来たので、左方向に向かうと思っていた。しかし、座席はすべて右方向を前にしている。思っていたのと前後が逆である。座席の下には、回転させることができるペダルがついており、座席が固定されているわけではなさそうだ。他の乗客は平然としている。博多行きのソニック号に間違えて乗ってしまったかとも思い、出入り口の電光掲示板を確認したが、間違えてはいない。この電車で大丈夫だと自分に言い聞かせ、席に座った。

列車が動き出した。前を向いて座っていた。

「スイッチ・バック」という言葉が浮かんだが、「少し違うな」と思い直した。こういう進行方向が変わることを何というのだろうか。

スイッチ・バックという言葉を知ったのは、森博嗣さんの『今はもうない』を読んだときである。森さんの小説には大抵英語のタイトルも併記されている。『今はもうない』の英語のタイトルが『SWITCH BACK』であった。

スイッチ・バックとは「困難な登坂を克服するために、一度、水平に後退してから上り直すやり方」である(『今はもうない』より)。小倉駅で進行方向が変わったが、坂道を上るためではないため、スイッチ・バックとは言えないだろう。

そんなことを考えていると中津に着いた。19時ごろである。

中津での用事を終え、そのまま中津で1泊。翌日は岡山で所用があり、中津から小倉へ向かい、小倉駅で新幹線に乗り換えた。前日とは逆を辿ったことになる。

新幹線のホームに着いてから「しまった!」と思った。

降りたソニック号の発車まで見ていれば、乗客が座席を一斉に回転させているところを見ることができたかもしれない。今回は下り列車でなく、上り列車である。上り列車だからといってスイッチ・バックではないが、ブログのネタになるかもしれなかったのに。

そんなことを考えていると岡山に着いた。午前10時過ぎである。

岡山での用事を終え、名古屋へ向かう新幹線の中で、中津で撮影したマンホールの写真をfacebookに投稿した。大分の友人より「大分?」とのコメントが入る。

大分にいたが、今はもういない。中津へ行って1泊してすぐに帰った。観光はしていない。

また「スイッチ・バック」という言葉が浮かんだが、「これは違う」と思い直した。

行ってすぐに帰ることは知っている。「トンボ返り」である。

2017/03/01

名前に思いを乗せる


縁あって、岐阜県大垣市にある現代設計事務所さんと親しくさせていただいている。写真は昨年(2016年)できた看板で「芝生マン」と呼ばれている。愛嬌があり親しみやすく、つい触りたくなる。会社自体も、真面目ではあるが、遊び心もしっかりと持っていて、楽しみながら仕事をしている。センスがいい。近年は設計だけではなく、住宅のリフォームや古民家の再生なども手がけている。

先日伺ったとき、社長から社名の由来を聞いた。「現代設計事務所」という名前をつけた理由である。

社長は約30年前、務めていた名古屋市にある会社を辞めて、出身地である大垣市で独立した。現代設計事務所の設立は1988年11月である。名前をつけるにあたり、まず考えたことは「自分の名前をつけたくなかった」ということであった。「○○設計事務所」のように代表者の名字を入れた社名はよく見るが、独立した当時には顧客はおらず、自分の名前で顧客が来るとは思わなかったらしい。そして他の設計事務所の名前を見ると、名字がついているもの以外では、「未来」や「カオス」などがあった。なぜか「現代」がない。そこで「現代設計事務所」と名づけたということであった。

名前をつけるという行為はいたるところにある。産まれた子供に名前をつける、ペットに名前をつける、愛着のあるものに名前をつける。プロジェクトにも名前をつけるし、コンセプトやキャッチフレーズも名前をいえば名前だろう。そしてそこには名づけた人の思いがある。

子供の名前がわかりやすいだろう。産まれる前からどのような名前にしようか考える。どのような子に育ってほしいか、声に出したときの響きはどうか、運勢のいい画数にしたいなど、様々なことを考える。名づけ親の思い、価値観が込められる。そして名前を呼ぶたび、呼ばれるたびに、その思いに触れる。思いを乗せる。

言霊といわれるものはこのようなものだと思っている。

現代設計事務所の社名も同じである。まだ説明しきれていない思いもあると思う。説明できない思いもあると思う。社長だけでなく、社員やこれまでかかわってきた人たちすべての思いも乗っている。「現代」も「設計」も「事務所」も固有名詞ではない。それぞれの言葉の言霊もある。経営理念は「縁を育む」。これらの名前、言葉の思いも乗っている。

私は現代設計事務所という社名に「現代というこの時代を設計していく会社」という思いを勝手に持っている。いま現在だけでなく、これまでもこれからも含めた現代という時代を設計していく会社という意味である。現代設計事務所にその思いを乗せる。

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