2017/02/26

天上の星を留めたる金の鋲


西田幾多郎『善の研究』を読んでいると以下の一節に出会った。
ハイネが静夜の星を仰いで蒼空における金の鋲といったが、天文学者はこれを詩人の囈語として一笑に附するのであろうが、星の真相はかえってこの一句の中に現われて居るかも知れない。
注解がついており、ドイツの作家であるハインリヒ・ハイネ(Heinrich Heine, 1797-1856)が、その詩集『北海』に収められた詩「夜の船室にて」の一節を踏まえたものであろう、と書かれていた。
天上の星は固く留められている
金の鋲によって
憧れも、嘆息もむなしい
寝入ることこそ最善なり

現在の天文学的知識からいうと、夜空に見える星々は、たとえ隣り合っているように見えても実際には隣り合っておらず、何光年も離れていることになる。たまたま地球という惑星から見ると隣り合って見えるだけである。

宇宙ロケットの開発などは、現在の天文学・物理学などの科学知識を基になされていて、小惑星探査機「はやぶさ」などの活躍を見ると、これらの知見は誤ってはいないだろう。これからどのような発見があるのかということも気になるし、楽しみでもある。このような宇宙開発や研究調査にかかわっていれば現実味も増すだろう。

かかわりがないとは言わないが、薄い。どちらかといえば、金の鋲によって留められている星々の方が実感が湧く。科学的想像力の欠如と言われたらそうなのかもしれないが、天上に金の鋲で留められているという想像力も素敵なことだと思う。

昔に比べて、見える星の数が減ったように思う。数えたことはないので印象だけなのかもしれない。大気汚染のためなのかもしれないし、目が悪くなったからかもしれないし、曇り空の日が多いだけなのかもしれない。

あるいは、金の鋲が取れてしまったのかもしれない。再度、金の鋲で留めるすべを、まだ知らない。

憧れも、嘆息もむなしい。寝入ることこそ最善なり。

天上の星を留めたる金の鋲
ハイネも独り眠りにつける


2017/02/25

経営統合するか、しないか



先日2月24日の日本経済新聞朝刊1面に、森永製菓と森永乳業が2018年4月をメドに経営統合するという記事が出ていた。これを受けて両社は「経営統合に限らず様々な可能性について検討していることは事実だが、現在当社として決定した事実はない」とのコメントを発表しているので、決定なのかどうかは定かではない。


「火のないところに煙は立たない」といわれ、日経新聞も憶測で記事は書かないと思うので、経営統合の方向で進んでいくのかもしれない。

経営統合するという記事を見たとき、真っ先に思ったのは、キョロちゃんはどうなるだろうかということである。記事にはキョロちゃんの動向は載っていなかった。

日経の記事を読む限り、海外事業の拡大や研究開発の強化が理由に挙げられており、キョロちゃんのリストラの心配はなさそうだ。むしろ、キョロちゃんパッケージの乳飲料やキョロちゃんズの海外展開の期待が高まる。

新聞報道の数日前に、ITmediaの記事が掲載されていた。タイトルは「チョコボールが、いまも売れ続けている理由」である。「3つの要因が重なって、いまも売れ続けている」という。「おもちゃのカンヅメ」「味のブラッシュアップ」「キョロちゃん」の3つの要因である。

味に関しては「積年の課題」があるという。キャラメル味のキャラメルが歯にくっついてしまうので改良を重ねているが、まだ解決できていない。

くっつくか、くっつかないか。

2017/02/24

常識

以前から気になっていた、小林秀雄さんの『考えるヒント』を読みはじめた。有名でロングセラーな本であるため、いつでも読めると思い、また今度、また今度、と先延ばしになっていた。先日書店に行ったとき、また目についたので、やっと購入した。

小林秀雄さんのことはほとんど知らない。『考えるヒント』についても、エッセイ集であることくらいしか知らない。その『考えるヒント』の最初のエッセイのタイトルが「常識」である。

常識については持論がある。

常識という言葉は、「常識を知らないのか」とか「そんなことは常識だ」とか、知っていて当然のことを知らないときに使われることが多い。しかし考えてみてほしい。常識というのが、「いついかなるときでも誰もが知っている知識」だとすれば、知らない人がいることは常識ではない。だから「常識を知らないのか」と言われたら、「私が知らないということは、それは常識ではありません」と答えるようにしている。心の中で。

かといって、自分が知っていることが常識であるかどうかはわからない。自分にとっての常識が、相手にとっても常識であるかどうかもわからないし、世界中の誰もが知っていることがあるのかと問われれば確認のしようもないわけで、常識の中身はわかっていない。だから基本的に「常識」という言葉は使わないようにしている。

以上は私の持論である。小林秀雄さんが書いているわけではない。

極端な例(屁理屈ともいう)を挙げてみたが、私も常識というのが「いついかなるときでも誰もが知っている知識」とは思っていない。誰かが「常識」という言葉を使ったとき、そこにはその人の常識の範囲がある。それは私が使ったときも同じである。

小林秀雄さんはエッセイの中で以下のように述べた。

常識の働きが貴いのは、刻々に新たに、微妙に動く対象に即してまるで行動するように考えているところにある。そういう形の考え方のとどく射程は、ほんの私達の私生活の私事を出ないように思われる。

そんなことは常識だ。

2017/02/23

時間と空間を超える

パソコンに保存されているファイルを整理していると、昔書いたものがみつかった。先日の記事「小田原市は神奈川県にある(前編後編)」は、昔書いたものを再構成したものである。

他にもいくつか見つかった。せっかくなので公開してみる。よくミステリーを読んでいたので、ミステリーに関するものが多い。雑文の感が否めない。

以下に記載するのは、おそらく鮎川哲也さんの短編集『五つの時計』を読んだあとに書いたものと思われる。

----------

本格推理小説でしばしばみられる「密室」と「アリバイ」は言葉としては2つにわかれているが、考え方としては、同一のものであるといえる。

ミステリー読者にとって非常になじみのあるこれら2つの言葉は説明をしなくともどのようなことかというのはわかっていると思うが、「密室」というのは、ある部屋があり、その中に他殺と思われる死体があるが、その部屋に犯人の出入りした痕跡がない、あるいは出入りできないといった状況を作り出したことであり、一方、「アリバイ」というのは、反抗時刻と思われている時間帯、疑わしい容疑者が他の行動をとっていたという状況を作り出すことである。

時間と空間。この違いが言葉の違いと考えてもよさそうだ。

しかし、時間と空間は切っても切れない関係にある。密室とアリバイのトリックを見ると容易に理解できるだろう。

本物の密室、あるいは完全なアリバイではミステリーとしてあまり成功すると思えない。不可能に見えるが、実は可能である、それを解くのが作者、探偵、読者の楽しみである。

アリバイに「時間の檻」という言葉を使うと、密室には「空間の檻」と付けたくなるが、合わせると「時空の檻」ということになる。

アリバイは時間のことだけで成り立っているわけではない。犯行時刻に他の「場所」にいた、というのも十分条件として挙げられるし、密室の場合も、その「時間」には部屋に入れなかったというのもある。

推理作家はこの「時空の歪み」を上手く創り出そうと日々頭を働かせる。

----------

ファイルの作成日時を確認すると、2009年2月22日だった。もっと前に書いた記憶があるので、手書きの文章を打ち直したのかもしれない。

時を経たものなので何かひねりを加えたかったが、思いつかなかった。

2017/02/22

ただDADAこねくり回して

RADWINPSに「DADA」という曲がある。ドラムが印象的でテンポがいい。歌詞には言葉遊びが多く、意味を考えると重くなりがちだが、皮肉めいたユーモアが感じられる。MVは言葉が氾濫していて見ていて飽きない。



竹内政明さんの『「編集手帳」の文章術』を読んだ。第1章は「私の『文章十戎』」として、文章を書くとき言い聞かせている10のルールを挙げていた。第1戎は「「ダ」文を用いるなかれ」である。頭のなかで「DADA」が流れた。

「ダ」文というのは、文末を「…だ」とした文のこと。竹内さんは「編集手帳(読売新聞の1面コラム)」では「…だ」を使わず、「…である」と書くという。「…だ」には、音読するとブツッ、ブツッと断ち切るところがある。また、必要以上に文章のテンポを良くしてしまう属性もある。読者の読む速度をコントロールし、少しでも丁寧に活字を追ってもらう意図もあって「…である」を採用しているようだ。

「DADA」が流れる。テンポがいい。歌詞には「簡単に命を断ち切らないで」というメッセージが込められている。

「…だ」には、音読するとブツッ、ブツッと断ち切るところがある。また、必要以上に文章のテンポを良くしてしまう属性がある。

「DADA」が流れる。
どうなってんだ どうなってるんだ あんたもう黙っておくんな
どうなろうが なんだって言うんだ そんなこった知ったこっちゃ
ないんだこっちゃ なんだっていいんだ エンヤコラ やんのかこら
ハッケヨイで さぁさぁノコッタ

読書とは格闘技であると誰かが言った。戦う気はない。

ただ駄々をこねて駄文を書いただけだ。

ブログ アーカイブ