2014/07/09

わもんな言葉82-覚我

「『離我』というのを、『浅我』を手放す、というふうに考えると、『深我』に気づいていく、ということに対して何か言葉がほしい」

本間先生が『2014年WORLDツアーのプロモーション MOVE制作&GLOBALわもんへの道』の中でこのようなことを言った後、出てきた言葉が「覚我」です。


「離我」というのは、我を離れること。

そのときの「我」というのは、非常に浅いところの「我」。

地位とか、立場とか、プライドとか、そういったところの表面的な「我」。

浅く表面的な「我」を「浅我」と名付けられました。


それに対して、深いレベルの「我」を「深我」と名付けられました。

その「深我」に気づいていくこと、それが「覚我」です。


「覚我」という言葉は、「覚悟」という言葉が影響しています。

そこで思い出したのが、「我」と「吾」の違いです。

「覚悟」の「悟」には「吾」があります。

以前に、なんで「われ」という漢字が2つあるのだろうと気になって調べたことがありました。


「我」と「吾」の違いとして漢和辞典に載っていたことは、「我」は目的格・所有格に用いて、「吾」は主格・所有格に用いられたというもの。

主格・目的格・所有格というのは文法用語で、単純にいうと、主格というのは主語をあらわす形式、目的格というのは目的語をあらわす形式、所有格というのは所有をあらわす形式。

日本語でいうと「吾は」とか「吾が」というときは「吾」を使い、「我を」というときは「我」を使うということです。

ちなみに所有格は「我が国」というように、現在ならば助詞「~の」を伴う形式です。


以前に思いつきで開催した『ミジンコセミナー』の中で、うまくは言えませんでしたが、「深我」というのは一人称の「私」と結びついているように思える、と話をしました。

一人称の私のことと、「我」と「吾」の違いが結びついて、私の中では次のような仮説が生まれています。


「浅我」は「我」、「深我」は「吾」。

目的格・目的語の「我」というのは、何か他のものから影響を受ける「我」。

主格・主語の「吾」というのは、何か動作を主体的に行う「吾」。


「離我」から「覚我」へのプロセスは、能動へのプロセスと重なっているような気がしています。

人が動き、走り出す。

『やぶちゃんのSNS(そう・なれば・すごい)』
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聞けば叶う〜わもん入門
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