2012/09/26

本間先生とやぶちゃんのコラボから「わもん」についてイメージしたこと

本間先生(@learnologist)&やぶちゃん(@wamonyabuchan)の面白コラボ企画。


Video streaming by Ustream

やぶちゃんのこの聞き方、そして本間先生のこの解説。

目指すところです。


この動画を見て思いついた「わもん」のイメージは、物理学あるいは数学でのイメージ。


先日の高知での「わもん」ライブでも説明がありましたが、「わもん」での聞き方のポイントとしてやぶちゃんは3つのことを挙げています。

「音」「波長」「重心」。


この3つを物理学あるいは数学に例えて説明してみようと思います。


まずは「音」。

物理的に音を記述するとすると、これは波になります。

とても複雑な波。

横軸に時間(?)、縦軸に周波数(音量?)をとると、グラフの形は複雑な波の形で表されます。


しかし、どんなに複雑な波でも、たしか単純な波の和に変換することができます。

「フーリエ変換」という名前だったと思います。


ここでの単純な波というのは、sin(サイン)やcos(コサイン)で表される周期関数のこと。

どんなに複雑な波も、単純な波の和。


複雑な波の場合は、単純な波も数多くあり、その中にはクセの波、話し方の波など、普段でもいつも現れるような波もありますが、それらの波を省き、本質の波を見極めます。


そして、波の運動というのは円の運動でもあります。

円には中心があります。


物理的、数学的なイメージでは、「音」を聞くというのは観察し記述すること。

グラフをとり、波形を描きます。

次にフーリエ変換によりその波を周期関数に分解・分析します。

その周期関数(「波長」)の中で、もともとの複雑な波に影響力のある周期関数の中心が「重心」


物理学も、数学も、わもんも、まだまだ中途半端な知識であり、使いこなすこともできていませんが、このようなイメージの連鎖が頭をよぎりました。

2012/09/22

話し手の「ものさし」を取り込む

先日、電話窓口の仕事でモニタリングをしていたとき、このままだとクレームになりそうな気がしたため、保留にさせて、オペレーターにオペレーションの指示をしたことがありました。

電話窓口でのモニタリングというのは、お客様とオペレーターの電話での会話を聞き、その様子をチェックすることです。

普段は会話の流れをあまり止めたくはないため、電話対応終了後にフィードバックをするのですが、今回はちょっとお客様の雰囲気が悪くなり始めたために、対話の途中に手を出しました。

お客様がイライラしはじめたにも関わらず同じような調子で対応していたためです。


クレームになり始めた理由は、お客様の言っていることをオペレーターがわかっていなかったため。

いや、わかってはいるのですが、お客様の言っていることとオペレーターが言っていることが少しずれているためです。


かなり簡略していうと、お客様が「登録をそのままにしておいてほしい」と言ったことに対して、オペレーターの答えは「わかりました。何もしないということですね」というもので、「いや、そうじゃなくて」と、そこから少しずつ話がずれていきました。

そして、私が指示したのは「『わかりました。そのままにしておきます』と言って」というものです。

「登録をそのままにしておいてほしい」と言われ、「何もしません」と答えるのと、「そのままにしておきます」と答えるのとでは、文字で書くと違いがよくわかると思います。

しかし、会話のなかではなかなか気付きません。

実際、そのオペレーターも電話が終わった後に話したとき、「私はそう言っていた」と言い、なぜ途中で電話を保留にさせられてオペレーションを訂正されたのかわかっていませんでした。

たとえば、話し手の「ムカつく」という言葉を受けて「腹が立つのですね」と返したり、話し手が「好き」と言ったのに「愛している」と言いかえたりしたとき、話し手の伝えたかったニュアンスからはずれてしまうことがあります。すると話し手は、自分の言いたいことが伝わらないと思い、話を深めていく気持ちをなくしたり、いらだったりします。
上記は、書籍『わもん』に「話し手の『ものさし』を取り込む」という章に書かれていることです。

先日のケースは、この現場を目の当たりにした状況です。


間違ってはいないけれども、ずれている。

たぶん、私自身もあると思います。


蝶の羽ばたきが嵐を起こすバタフライ効果と言われる現象は、会話のなかでも起こりうるもの。

ちょっとしたずれが、のちのち大きくなることは多々あります。


先日の出来事の際、オペレーターに途中で止めた理由などをひととおり説明はしましたが、オペレーターはまだちょっと不納得な様子でした。

私もまだまだ修行が必要ですね…。

2012/09/17

「語感」と「五感」

先日、黒川伊保子さんの『いい男は「や行」でねぎらう いい女は「は行」で癒す』という新書本を買いました。

書店でたまたま見かけたものですが、タイトルからは、おそらく、音声的な言葉による恋愛術みたいな内容だと想像できます。

購入の決め手となったのは、帯に書かれていた言葉。

『脳をくすぐる「言葉の感触」』

恋愛術の類の本はほとんど買ったことはありませんが、なかなか面白そうだと思いました。


読んでみると、タイトルからの印象は逆だったようです。

恋愛術、あるいは男女の機微(?)を題材とした音とイメージの入門書といった内容。

すべてを読んだわけではありませんが、こういうタイトルの方が売れるのですかね?


意味のまとまりを持った言葉を単語とすると、単語には当然意味があります。

例えば「りんご」という言葉には、「りんご」という意味があります。

実物のりんごを半分に切ったとしても、りんごではありますが、単語は「り」「ん」「ご」と3つに分けるとりんごの意味はありません。

「り」という言葉は「りんごの『り』」ということはできるかもしれませんが、3つに切った実物のりんごのひとつを「り」ということはありません。


しかし、「り」という言葉(音)には、その音から感じられるイメージのようなものがある。

それを『いい男は「や行」でねぎらう いい女は「は行」で癒す』では「語感」と呼んでいます。


そういえば、ツイッターでフォローしている方に「語感分析」をしている方がいたのを思い出しました。
@TOPAZ284(語感分析士・小松輝幸)
語感分析士育成会
Sapphire(サファイア)というソフトウェアが公開されていますが、会員制のようです。


視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚の5つを「五感」と呼びますが、それらは独立しているものではありません。

聴覚の例でいうと、音には「やわらかい音」や「固い音」、「大きい音」「小さい音」など、触覚や視覚など表現と同じ単語を使ったりします。


私が言葉に興味を持つのは、人間の認識が表現されたものが言葉だと思っているからです。

「五感」と「語感」の関係は興味があります。



2012/09/16

わもん1周年

9月12日に公開されたヤブログ放送室のお題は『書籍わもん1周年』でした。

書籍『わもん―聞けば叶う』が発行されてから1年がたちます。

そして、私が心徒塾に初めて参加してからも1年が過ぎました。


2011年9月10日が書籍『わもん』の初版第1刷の発行日。

そして、その日第17回心徒塾に初参加。

それから1年たち…、いつの間にか「わもん」に漬かっております。


もともと仕事上の関係でコーチングには興味があり、コーチング界では有名な方のお一人、本間正人先生(@learnologist)をツイッターでフォローしていました。その本間先生のつぶやきから、やぶちゃん(@wamonyabuchan)のことを知りました。

いつのことなのか、はっきりと覚えていませんが、togetterでの最初のまとめ(聞き方のコツ《修行編》)を見ると、少なくとも2010年11月には知っていたようです。

初めてリツイートをしたつぶやきを確認すると、2010年11月2日のものでした。

同じころに株式会社わもんのホームページや、ヤブログ(現やぶちゃんねる)に興味を持ち始めています。


そして、ヤブログ放送室にお題のリクエスト。

リクエストしたお題は『電話での聞き方』です。

こんなことをつぶやいているので、このころ頻繁にはヤブログを確認していなかったようです(^-^;)



このように振り返ってみると、わもんに興味を持ってから、ずいぶんと潜伏期間があります。

半年くらいは、心徒塾に行こうか行くまいか迷っていたということですね。


心徒塾」の開催は2011年1月からで、当時は「白帯心徒塾」は名前もなく、やぶちゃんに会うには「心徒塾」の他は、「わもん塾」か、「講演会」か、「プライベートわもん」か、でした。

わもん塾」が一番いいかなと思いつつも、大阪での開催は見当たらず、はたまた「講演会」については都合のいい日時のものはなく、そして「プライベートわもん」は気が引け…。

心徒塾」に参加しようと思ったのは、迷った挙句というのもありますが、書籍『わもん』の発刊というのも大きな理由でした。

「行けば買える」と。


まあ、そうしたことがきっかけで心徒塾に参加し、結果、今も(毎回ではないですが、)心徒塾に出入りしています。


以下、これまでに参加したわもん関係のイベント(?)のまとめです。

2011年
09/10 第17回心徒塾
09/11 第18回心徒塾
10/09 第20回心徒塾
11/03 第1回白帯心徒塾
11/12 第21回心徒塾
11/13 第22回心徒塾
2012年
01/06 第1回わもん塾大阪
02/03 日比谷カレッジ
02/11 第27回心徒塾
02/12 第28回心徒塾
04/08 第32回心徒塾
05/13 第34回心徒塾
06/09 第35回心徒塾
06/10 第36回心徒塾
07/08 第38回心徒塾
08/05 第40回心徒塾
08/11 夏の文屋座
09/09 第42回心徒塾
1年365日のうち18日のみと考えると少ないですが、日々修行です。

2012/09/13

【ネタ】新型iPhone画像

新型のiPhoneは、従来よりも縦長になるようです。

10人の声を聞き分けられるSiri搭載!?


【画像元】

2012/09/12

わもんな言葉15―話すわもん

「人は“ひらがな”で話を聞いている」

西任暁子さんの『「ひらがな」で話す技術』に書かれている言葉です。

なるほど、と思いました。


文字は別として、音声での言語表現は物理的にみると音の連続です。

横軸に時間、縦軸に周波数をとってグラフに表しても、単語の切れ目や文節の切れ目がどこにあるのか、そのグラフを見ただけではわかりません。

グラフから言葉の意味を読むことはできません。


そうやって耳に入ってくる音の連続を私たちは「ことば」として聞いています。

アクセントや抑揚など、単語や意味のまとまりを示す目印はあるにしても、かなり不思議ですごいことです。


このことをわかりやすく表現した言葉が、冒頭の「人は“ひらがな”で話を聞いている」という表現だと私は認識しています。


「人は“ひらがな”で話を聞いている」ならば、わかりやすい話し方は「“ひらがな”で話す」こと。

『「ひらがな」で話す技術』は、わかりやすく話すための方法について書かれた本です。


この本を読んだとき、「話すわもん」を思いうかべました。


「わもん」は漢字で書くと、「話す」と「聞く」で「話聞」。

「わもん」は「聞く修行」といい、「聞く」に重点を置いていますが、「わもん」の提唱者やぶちゃんは、「わもん」には「話すわもん」と「聞くわもん」がある、といいます。



『「ひらがな」で話す技術』では、「はじめに」の中で、西任さんは次のように言います。
大切なのは、自分の話が「相手にどう聞こえているのか」を徹底的に考え抜くこと。「音」で聞いている相手の頭の中がどういう状態なのか、常に想像することなのです。

おもしろいと思ったのは、『「ひらがな」で話す技術』の最終章が「「話す」とは心の矢印を相手に向けていく作業」というタイトルだったことです。

わもん日めくりカレンダーに「心の矢印を自分に向ける」という言葉があります。

「聞くとき」と「話すとき」では心の矢印の方向が逆。

言い換えると、聞き手と話し手の心の矢印の方向は同じ。

聞き手と話し手が、対立(→←)ではなく、方向を同じく(→→)すれば、合力となり、より深い話が聞ける、話せるのではないかと思います。


【追記】
ここまで書いて公開しましたが、心の矢印について誤解されてしまう可能性がありますので追記します。

わもん日めくりカレンダーの「心の矢印を自分に向ける」というのは、話を聞くときに、話し手を責めたり、否定したり、誰かのせいにせず、自分に向けることを指します。

一方、『「ひらがな」で話す技術』の「「話す」とは心の矢印を相手に向けていく作業」というのは、相手目線で話すという意味で「心の矢印」という言葉を使っています。

「『聞くとき』と『話すとき』では心の矢印の方向が逆」と書きましたが、話すときには聞き手を責めたり、否定したりする、という意味ではないことを付け加えておきます。

最後の文章は、矢印の方向を変えて、
聞き手と話し手が、対立(→←)ではなく、方向を同じく(↓↓)すれば、合力となり、より深い話が聞ける、話せるのではないかと思います。
とした方が、「深い話」ともイメージが合致します。


2012/09/04

わもんな言葉14―聞き手未熟

『論語』の中で有名なもののひとつに、次の言葉があります。
「人の己を知らざるを患えず。人を知らざるを患う」

人が自分のことをわかってもらえないことを心配するな。

自分が人のことを知らないことを心配しなさい。

というような意味です。


「わもん」でいう「聞き手未熟」と同じようなことを指しています。


「聞き手未熟」とは、書籍『わもん』から引用すると、
「わもん」において、会話がうまく運ばない、話し手が話をしてくれない場合に、その理由や原因は聞き手にあるという真理。思うように話を聞けないとき、話し手の性格や態度、話を聞く環境などのせいにしていると、「わもん力」は磨かれないとする考え方。「わもん」上達のためには、心の矢印を自分に向け、聞けない原因を自分自身のなかに求めることが必要であると心得る姿勢。
です。


冒頭の『論語』の言葉は、『論語』の中でも特に重要視されている言葉ではないかと思います。

その理由は、何度も出てくる言葉だからです。


『論語』は、(人によっては別の篇立てをする方もいらっしゃいますが、)20篇から成り立ち、その篇の最初の2字(あるいは3字)をとって篇名としています。

冒頭に挙げたのは「学而篇」の言葉。

同様な言葉が他の篇にも現れます。
「位なきを患えず。立つ所以を患う。己を知る莫きを患えず。知る可きを為さんことを求む」(里仁篇)
「人の己を知らざるを患えず。其の不能を患うるのみ」(憲問篇)
「君子は能くする無きを病む。人の己を知らざるを病まず」(衛霊公篇)
『論語』の成立過程は詳らかになっていませんが、同じような言葉が頻繁に現れてくるのは、『論語』にかかわる多くの人が、この言葉は大切であると認識してきた結果であると思います。


「聞き手未熟」に即していえば、「人が話をしてくれないことのを憂うな。自分が聞くことができないことを憂いなさい」とでも言えるでしょうか。


私見ですが、「わもん」と「儒教」(「儒学」といった方がいいかもしれません)とは相性がいいように思います。

『論語』は、儒教における四書のひとつ。

そして儒教は、己を修め人を治める「修己治人」の教えだといわれています。


「わもん」とは、「聞く修行」。

話をただただ聞くことを修行と位置づけ、自分自身の聞き方、在り方、生き方を見つめます。

聞くことは、自分自身の修養です。


話し手は「聞いてくれてありがとう」

聞き手は「話してくれてありがとう」


自分自身の「聞く力」、「わもん力」を高めることで、周りの人を輝かせていくことを目指しています。



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