前々からプライベート用に名刺を作ってもいいかも、と思っていましたが、実行には移しておりませんでした。
しかし、今回、自分用の名刺を作ってもらいました。
「お守り名刺」です。
会社の名刺は持っているものの、更新をしておらず、現在手元にある名刺は転勤前のもの。
コールセンター勤務ですので、名刺を使う機会はほとんどなく、仕事上の不便は感じていません。
しかし、社外のイベントだとか、セミナーや研修等に参加すると、初対面の人に会うこともしばしば。
そんなとき、相手の方が名刺を差し出してくると…。
「持ち合わせていないので、恐縮ですが…」とお茶を濁すように受け取っていました。
コールセンター勤務といっても、コールセンターを運営するとか、コールセンターの支援を行っているとか、そういった仕事はしていないので、ビジネス上の付き合いはないだろうと高をくくってはいましたが、名刺をもらうだけというのも何となくバツが悪い。
なので、自分用の簡単な名刺でも作っておいてもいいかも、と思っていた次第。
しかし、必要に迫られているわけでもなく、「いつか」と先延ばし。
自分用に作ったとしても肩書も何もなく、必要ならばメモ書きでもいいかと。
初対面の方に会い、名刺をもらうたびに「つくってもいいかな」と思い出すくらいでした。
「お守り名刺」のことを知ったときも、作るのならこのような名刺がいいなとは思いましたが、そこで申し込みをすることはなくそのまま。
ここ最近、ちょこちょこと顔を出している「心徒塾」の題字を書かれているのが、小布施にある浄光寺の副住職、林永寿さんです。
その文字がとても味のある文字で、「お守り名刺」のことを知ったのもその頃です。
そして、月日はたち…。
先週のヤブログ放送室『風水とわもん4』を聞いたとき、「名刺を作ろう」と決めました。
自分の名前に蒔かれた種を育ててみようと。
『漢和辞典』は手元にないので調べていませんが、大学時代に漢字好きの友人がいて、その友人に自分の名前の漢字を調べてもらったことがあります。
私は「智洋」という名前ですが、「智」は「智慧(ちえ)」という言葉があるように「知識」などの意味があります。
「洋」は「太平洋」のように「広々」とか「広げる」という意味。
そのとき私が、「『知識を広めていく』といういい意味やね」と言うと、その友人は「いや、出し過ぎて頭の中は空っぽという意味(笑)」というやりとりがありましたが(笑)
そんなやりとりがあったものの、いい意味にとっています。
「智洋」という名前について、親からは「画数でいい名前を複数あげてもらって、その中から決めた」と聞いています。
選んだ理由はというと、私の母親は「ちひろ」という名前で、「智洋」は「ちひろ」とも読めるから、という理由。
苗字は「佐野」です。
「佐」の意味を調べたことはありませんが、先日、facebook上の本間先生からのコメントで「support」という意味があることを知りました。
そういえば「補佐」などの単語で出てきますね。
「サポートする分野で、知識を広める」
なかなかいい名前ではないですか!
そういうわけで、「お守り名刺」を作ってみました。
住所や電話番号やメールアドレスは載せず、肩書もなく、名前のみ。
少しさみしいかとも思い、facebookのアドレスのみ記載しましたが。
自分の名前に胸を張るのも名刺の効用かもしれません。
2012/05/31
2012/05/22
日食の物語
昨日(2012年5月21日)は、さまざまなところで金環日食が話題にあがりました。
国立天文台のHPによると、
珍しい現象ではあります。
私はというと、見れたらラッキー、くらいにしか思っていなかったので、朝起きて太陽を見てみましたが、曇っていて見えず。
根気よく待っていれば見れたのかもしれませんが。
言うまでもなく、金環日食は日食の現象のひとつを指すもので、太陽を隠す月よりも太陽が大きく(大きく見え)なければなりません。
太陽を全て隠してしまう日食を皆既日食と言います。
一部を隠す場合は部分日食。
日食で思い出す話は、日本神話の天照大御神の天岩戸に隠れてしまったという話です。
Wikipedia「日食」の項では、
部分日食や金環日食ではなく、皆既日食として。
皆既日食で太陽の光が届かない中、しばらくすると日食が明け、徐々に光が指し込んでくる。
天岩戸から天照がそっと外をのぞきこむ。
そんなイメージが重なっています。
古代の人々はイメージ豊かですね。
今回の金環日食でも、神話までとはいかないまでも、どこかで素敵な物語がつくられているのではないかと、と思いを馳せています。
国立天文台のHPによると、
日本の陸地に限ると、金環日食が観察できるのは、1987年9月23日に沖縄本島などで見られた金環日食以来のことです。次回も2030年6月1日に北海道で見られる金環日食まで、18年間起こりません。とのこと。
珍しい現象ではあります。
私はというと、見れたらラッキー、くらいにしか思っていなかったので、朝起きて太陽を見てみましたが、曇っていて見えず。
根気よく待っていれば見れたのかもしれませんが。
言うまでもなく、金環日食は日食の現象のひとつを指すもので、太陽を隠す月よりも太陽が大きく(大きく見え)なければなりません。
太陽を全て隠してしまう日食を皆既日食と言います。
一部を隠す場合は部分日食。
日食で思い出す話は、日本神話の天照大御神の天岩戸に隠れてしまったという話です。
Wikipedia「日食」の項では、
天照大御神の天の岩戸の神話は日食を表しているとの見方がある。現在のところ過去の特定の日食現象には同定されていない。計算上は、邪馬台国の時期に日本列島で日食が2回起きた可能性がある。卑弥呼が死んだとされる247年と248年である。国立天文台の谷川清隆・相馬充らは、「特定された日食は『日本書紀』推古天皇36年3月2日(628年4月10日)が最古であり、それより以前は途中の文献がないため地球の自転速度低下により特定できない」としている。とあり、必ずしも日食の話とは断定できないようですが、私はこの話は日食を元につくられたのではないかと思っています。
部分日食や金環日食ではなく、皆既日食として。
皆既日食で太陽の光が届かない中、しばらくすると日食が明け、徐々に光が指し込んでくる。
天岩戸から天照がそっと外をのぞきこむ。
そんなイメージが重なっています。
古代の人々はイメージ豊かですね。
今回の金環日食でも、神話までとはいかないまでも、どこかで素敵な物語がつくられているのではないかと、と思いを馳せています。
2012/05/20
雑記
とある定食屋さんでとんかつ定食を注文しました。
ご飯とみそ汁、お新香、そしてとんかつと生野菜。
私にとってはまともな食事(^-^;)
そして、ソースが2種類。
ひとつは、普通のとんかつソース(普通のとんかつソースとはどんなソースか、は問わないでください)。
もうひとつは、たぶんそのとんかつソースにからしを混ぜたもの。
「ん!?」と思ったのは、その2種類のソースが小鉢に入って出てきたことです。
2種類の味が楽しめるのはうれしいことですが、どう考えてもソースが余ります。
「使いたい分だけ使えるようにした方がいいのではないか?」と考えてしまいました。
ちょっともったいない。
そんなことを考えつつ食べていると、生野菜の陰にからしが盛ってありました。
今度は、「ソース2種類もいらないんじゃないか…」と。
結局、ソースもからしも余らして食事終了。
味は、おいしかったのですけれども。
話は変わって、いつの頃からかは知りませんが、コンビニのサラダはドレッシングが別売りになりました。
家で弁当を食べるときなどは、冷蔵庫にドレッシングがあるので、別売りの方がいい。
弁当を買うと、その弁当にマヨネーズやソースが小袋でついてくることがありますが、そういうものも別売りにしてもいいような気がします。
あるいは欲しい人だけ持っていけるサービスにした方がいいかも。
割りばしやストローも、欲しい人だけにした方がいいと思うのですが、コンビニで弁当を買ったりすると無条件についてきます。
店員によっては、「必要ですか?」と聞いてくれる人もいますけれど。
しかし、1リットルの牛乳を買ったときに、ストローはいらない…(^-^;)
コンビニでとんかつ弁当を買ったとき、からしがついてきますが、私にとってはからしはいりません。
しかし、ついているものを使わないのもどうかと思うし、とっておいても使い道がないので、全部使います。
貧乏性ですかね。
必要なものが必要な分だけ、過不足なくあることが生活の理想ですが、なかなか難しいです。
ご飯とみそ汁、お新香、そしてとんかつと生野菜。
私にとってはまともな食事(^-^;)
そして、ソースが2種類。
ひとつは、普通のとんかつソース(普通のとんかつソースとはどんなソースか、は問わないでください)。
もうひとつは、たぶんそのとんかつソースにからしを混ぜたもの。
「ん!?」と思ったのは、その2種類のソースが小鉢に入って出てきたことです。
2種類の味が楽しめるのはうれしいことですが、どう考えてもソースが余ります。
「使いたい分だけ使えるようにした方がいいのではないか?」と考えてしまいました。
ちょっともったいない。
そんなことを考えつつ食べていると、生野菜の陰にからしが盛ってありました。
今度は、「ソース2種類もいらないんじゃないか…」と。
結局、ソースもからしも余らして食事終了。
味は、おいしかったのですけれども。
話は変わって、いつの頃からかは知りませんが、コンビニのサラダはドレッシングが別売りになりました。
家で弁当を食べるときなどは、冷蔵庫にドレッシングがあるので、別売りの方がいい。
弁当を買うと、その弁当にマヨネーズやソースが小袋でついてくることがありますが、そういうものも別売りにしてもいいような気がします。
あるいは欲しい人だけ持っていけるサービスにした方がいいかも。
割りばしやストローも、欲しい人だけにした方がいいと思うのですが、コンビニで弁当を買ったりすると無条件についてきます。
店員によっては、「必要ですか?」と聞いてくれる人もいますけれど。
しかし、1リットルの牛乳を買ったときに、ストローはいらない…(^-^;)
コンビニでとんかつ弁当を買ったとき、からしがついてきますが、私にとってはからしはいりません。
しかし、ついているものを使わないのもどうかと思うし、とっておいても使い道がないので、全部使います。
貧乏性ですかね。
必要なものが必要な分だけ、過不足なくあることが生活の理想ですが、なかなか難しいです。
2012/05/17
『(ら)れる』のコーチング論(2)
以前に「『(ら)れる』のコーチング論(1)-受身・被害・自発・可能・尊敬」という記事を書きました。
今、確認するとずいぶん前ですね…。
これは、日本語の助動詞「れる・られる」と、コーチングには共通点があるかもしれない、と思いつきで書いた記事です。
今回はその続編…、になるかどうか…。
日本コーチ協会のHPでは、コーチングとは以下のように書かれています。
現在地と目標を意識させ、選択肢を明確にし、意思決定や行動をより起こしやすくしていく。そして成果を達成していく。
クライアントの自主性を高めていくとも言い換えることができます。
さて、私は大学生のとき、言語学を学んでいました。統語論が中心です。できのいい学生ではありませんでしたが…。
そこで、受動態(いわゆる「受身」)についてもかじりました。
柴谷方良先生はプロトタイプ論の立場から、受動化の機能を「動作主の脱焦点化」とし、その機能が「尊敬・可能・自発」の構文に関連付けられることを論じています。
当時からあまり深くは理解できておらず、今ではもうあやふやになってきてしまい、論文や参考文献も手元に置いていないのでおぼつかない知識のままですが、そこでは「他動性」という概念が出てきます。
「他動性」が高い現象は、言語において「他動詞構文」として表現され、「他動性」が低い現象は「自動詞構文」として表現されます。
つまり、「他動性」という概念を用いて、他動詞構文と自動詞構文をひとつの連続体として取り扱おうという試みです(このような表現が適切かどうかはさておき…)。
他動性が高い動詞としてよく例に取り上げられていたのは、物騒ですが、「殺す」や「壊す」「割る」といった動詞。
動作を行う動作主がいて、対象に何らかの力を与えてその対象が変化する、そういった意味を表わす動詞(あるいは文)を他動性が高いといいます。
そして、他動性が高い能動文からは、容易に受動文が作れます。
例えば、(物騒ですが)「太郎は次郎を殺した」という能動文を受動文にする(受動化)と「次郎は太郎に殺された」となります。
「太郎は次郎を殺した」の例でいうと、太郎は「殺す」という動詞の「動作主」、次郎は「殺す」という動詞の「対象」といえます。
能動文では、動作主が主語として、対象が目的語として表現されますが、受動文では、対象が主語、動作主は助動詞「に」を伴って表現されます。
能動文では、動作主が焦点として主語となっていますが、受動文では焦点が対象となっている、つまり受動文では動作主が脱焦点化されているわけです。
(※「主語」とは何か?等の問題は詳しくは立ち入りません…)
受動化の機能を「動作主の脱焦点化」とすると、典型的な、あるいはプロトタイプ的な受動文は「受身」の意味ですが、そこからの意味の発展・拡張として、「尊敬」「可能」「自発」の意味が生まれるのではないか、という説です。
(何度も書きますが、うろ覚えです…。)
統語的に比較すると、能動文では動作主は助詞「ガ」、対象は助詞「ヲ」を伴い、動詞は基本形。
受動文では動作主は助詞「ニ」、対象は助詞「ガ」を伴い、動詞には助動詞「(ラ)レル」が付きます。
一方で「自発」的な表現というのは、自然にそうなった、というような表現で、例えば「ガラスが割れた」など(本当に何もなく自然にガラスが割れることは確率的には少ないにも関わらず。)という表現です。
ここには動作主は不在で、対象は「ガ」を伴って、また「割る」という動詞から派生した「割れる」という動詞を使用します。
また一方で、「可能」的な表現では、「太郎は瓦が割れる(=割ることができる)」というような表現で、対象は「ガ」を伴いますが、動作主がいます。
動詞は「割れる」ですね。
また、「太郎は瓦を割れる(=割ることができる)」というように、対象が「ヲ」を伴って表現されることもあります。(違和感がある表現と感じる方もいらっしゃるかもしれません。)
「割る」と「割れる」という他動詞・自動詞の対を考えるとき、「ら抜き言葉」を思い出さずにはいられません。
「ら抜き言葉」を日本語の乱れと考えられる方もいらっしゃいますが、私は「可能動詞の生成」と考えています。
例えば、「食べる」を助動詞「(ら)れる」をつけると「食べられる」となりますが、この「食べられる」は受身の意味にも可能の意味にも使うことができます。
しかし、その「ら抜き言葉」である「食べれる」は、可能の意味でしか使われず、受身の意味で用いられることはありません。
「食べれる」という可能動詞ができつつある現象が「ら抜き言葉」ではないかと捉えることもできます。
例えていうならば「青」と「緑」の間の色を「青緑」というように、「能動」と「受動」の間に「可能」があるのではないかともいえるのではないか。
同じように「自発」「尊敬」も、「能動」と「受動(受身)」の間にあるのではないか。
コーチングの話に戻すと、コーチングの目的は、「動作主の焦点化」ではないかと思っています。
クライアントに焦点をあて、クライアントが主語で、クライアントが動作主。
受身的の状態から、能動的になるよう促していくのがコーチングの目的ではないかと。
受身と能動の間には、可能・自発・尊敬があります。
クライアントができるようにする。
クライアントが自発的・自主的な行動を起こせるようになる。
クライアントを尊重する。
コーチが不在でも、クライアントは動作主として、他の対象に影響を与え、その環境を変えていく。
上手くはいえませんが、「(ら)れる」のコーチング論というのは、「言語(あるいは認識)」と「コーチング」を統一的に考えようとする試みです。
今、確認するとずいぶん前ですね…。
これは、日本語の助動詞「れる・られる」と、コーチングには共通点があるかもしれない、と思いつきで書いた記事です。
今回はその続編…、になるかどうか…。
日本コーチ協会のHPでは、コーチングとは以下のように書かれています。
■コーチングとは?
プロフェッショナル・コーチングとは、コーチとしての専門的なトレーニングを受けたコーチとクライアントと呼ばれる個人(またはチーム)が目標を設定し、成果を達成していくためのパートナーシップです。
クライアントとコーチは会話を通じてコミュニケーションを交わします。コーチは聞き、観察し、質問し、時には提案することによって、クライアントの行動をより起こしやすくしていきます。
コーチングのプロセスでは、コーチはクライアントがより効率よく、より効果的に行動できるよう焦点を絞り、あらゆる行動の選択肢を明確にします。同時にコーチはクライアントの現在地と、向かう先の位置を意識させます。
コーチによるコーチングスキル、コーチングアプローチ、コーチング知識のサポートを得ることで、クライアントは自分の責任において意思決定、選択、そして行動を起こし、成果がもたらされます。プロのコーチはその関係を理解しています。
現在地と目標を意識させ、選択肢を明確にし、意思決定や行動をより起こしやすくしていく。そして成果を達成していく。
クライアントの自主性を高めていくとも言い換えることができます。
さて、私は大学生のとき、言語学を学んでいました。統語論が中心です。できのいい学生ではありませんでしたが…。
そこで、受動態(いわゆる「受身」)についてもかじりました。
柴谷方良先生はプロトタイプ論の立場から、受動化の機能を「動作主の脱焦点化」とし、その機能が「尊敬・可能・自発」の構文に関連付けられることを論じています。
当時からあまり深くは理解できておらず、今ではもうあやふやになってきてしまい、論文や参考文献も手元に置いていないのでおぼつかない知識のままですが、そこでは「他動性」という概念が出てきます。
「他動性」が高い現象は、言語において「他動詞構文」として表現され、「他動性」が低い現象は「自動詞構文」として表現されます。
つまり、「他動性」という概念を用いて、他動詞構文と自動詞構文をひとつの連続体として取り扱おうという試みです(このような表現が適切かどうかはさておき…)。
他動性が高い動詞としてよく例に取り上げられていたのは、物騒ですが、「殺す」や「壊す」「割る」といった動詞。
動作を行う動作主がいて、対象に何らかの力を与えてその対象が変化する、そういった意味を表わす動詞(あるいは文)を他動性が高いといいます。
そして、他動性が高い能動文からは、容易に受動文が作れます。
例えば、(物騒ですが)「太郎は次郎を殺した」という能動文を受動文にする(受動化)と「次郎は太郎に殺された」となります。
「太郎は次郎を殺した」の例でいうと、太郎は「殺す」という動詞の「動作主」、次郎は「殺す」という動詞の「対象」といえます。
能動文では、動作主が主語として、対象が目的語として表現されますが、受動文では、対象が主語、動作主は助動詞「に」を伴って表現されます。
能動文では、動作主が焦点として主語となっていますが、受動文では焦点が対象となっている、つまり受動文では動作主が脱焦点化されているわけです。
(※「主語」とは何か?等の問題は詳しくは立ち入りません…)
受動化の機能を「動作主の脱焦点化」とすると、典型的な、あるいはプロトタイプ的な受動文は「受身」の意味ですが、そこからの意味の発展・拡張として、「尊敬」「可能」「自発」の意味が生まれるのではないか、という説です。
(何度も書きますが、うろ覚えです…。)
統語的に比較すると、能動文では動作主は助詞「ガ」、対象は助詞「ヲ」を伴い、動詞は基本形。
受動文では動作主は助詞「ニ」、対象は助詞「ガ」を伴い、動詞には助動詞「(ラ)レル」が付きます。
一方で「自発」的な表現というのは、自然にそうなった、というような表現で、例えば「ガラスが割れた」など(本当に何もなく自然にガラスが割れることは確率的には少ないにも関わらず。)という表現です。
ここには動作主は不在で、対象は「ガ」を伴って、また「割る」という動詞から派生した「割れる」という動詞を使用します。
また一方で、「可能」的な表現では、「太郎は瓦が割れる(=割ることができる)」というような表現で、対象は「ガ」を伴いますが、動作主がいます。
動詞は「割れる」ですね。
また、「太郎は瓦を割れる(=割ることができる)」というように、対象が「ヲ」を伴って表現されることもあります。(違和感がある表現と感じる方もいらっしゃるかもしれません。)
「割る」と「割れる」という他動詞・自動詞の対を考えるとき、「ら抜き言葉」を思い出さずにはいられません。
「ら抜き言葉」を日本語の乱れと考えられる方もいらっしゃいますが、私は「可能動詞の生成」と考えています。
例えば、「食べる」を助動詞「(ら)れる」をつけると「食べられる」となりますが、この「食べられる」は受身の意味にも可能の意味にも使うことができます。
しかし、その「ら抜き言葉」である「食べれる」は、可能の意味でしか使われず、受身の意味で用いられることはありません。
「食べれる」という可能動詞ができつつある現象が「ら抜き言葉」ではないかと捉えることもできます。
例えていうならば「青」と「緑」の間の色を「青緑」というように、「能動」と「受動」の間に「可能」があるのではないかともいえるのではないか。
同じように「自発」「尊敬」も、「能動」と「受動(受身)」の間にあるのではないか。
コーチングの話に戻すと、コーチングの目的は、「動作主の焦点化」ではないかと思っています。
クライアントに焦点をあて、クライアントが主語で、クライアントが動作主。
受身的の状態から、能動的になるよう促していくのがコーチングの目的ではないかと。
受身と能動の間には、可能・自発・尊敬があります。
クライアントができるようにする。
クライアントが自発的・自主的な行動を起こせるようになる。
クライアントを尊重する。
コーチが不在でも、クライアントは動作主として、他の対象に影響を与え、その環境を変えていく。
上手くはいえませんが、「(ら)れる」のコーチング論というのは、「言語(あるいは認識)」と「コーチング」を統一的に考えようとする試みです。
2012/05/13
雑記
「0.999… = 1」
ずっと、頭では納得しつつも、何となく違和感があります。
先日、飲茶さんの『史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち』という本で、老子・荘子の箇所を読んでいたとき「一」という概念(いや、概念ではないけれども)が出てきました。
そこで思い出したのが、「0.999… = 1」のことです。
前々から、「無限」と「一」というのは、同じものを違った側面から見ているものではないか、という気がしてならないのですが、全く上手く説明することができません。
「無限」と「一」との関係が今一つ説明しにくいのです。
『史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち』の「荘子」の節で、「言葉によって境界が生まれる」という言葉がありました。
これは、私もそんな風に思っていた(といっても私が思いついたわけではありませんが…)ので、「うん、そのとおり」などと思いながら読んでいたのですが、ふと、「0.999… = 1」というのは、境界のことではないか、と思いました。
で、ちょっと押し進めて、「0.999…」というのは「1」を内側からみたときの表現なのではないか、とも。
もちろん、「1」に内側や外側があるわけではなく、また内側や外側も私自身がそう思っているわけで、実際にこっちが内、あっちは外といえるわけでもなく、甚だ心もとないことなのですが、以前よりは「0.999… = 1」が納得できた気がします。
例えば、「宇宙」という言葉。
私たちは宇宙の中にいて、宇宙は無限の広がりを持っているように思えます。
しかし、「宇宙」と言葉にしてしまうと、宇宙の外に何かがあるような気もします。
このようなことを、言葉で説明するのは、難しい…。
認識の方法と表現の方法。
その代表格が「言葉」。
この辺りの興味は尽きることがありません。
ずっと、頭では納得しつつも、何となく違和感があります。
先日、飲茶さんの『史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち』という本で、老子・荘子の箇所を読んでいたとき「一」という概念(いや、概念ではないけれども)が出てきました。
そこで思い出したのが、「0.999… = 1」のことです。
前々から、「無限」と「一」というのは、同じものを違った側面から見ているものではないか、という気がしてならないのですが、全く上手く説明することができません。
「無限」と「一」との関係が今一つ説明しにくいのです。
『史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち』の「荘子」の節で、「言葉によって境界が生まれる」という言葉がありました。
これは、私もそんな風に思っていた(といっても私が思いついたわけではありませんが…)ので、「うん、そのとおり」などと思いながら読んでいたのですが、ふと、「0.999… = 1」というのは、境界のことではないか、と思いました。
で、ちょっと押し進めて、「0.999…」というのは「1」を内側からみたときの表現なのではないか、とも。
もちろん、「1」に内側や外側があるわけではなく、また内側や外側も私自身がそう思っているわけで、実際にこっちが内、あっちは外といえるわけでもなく、甚だ心もとないことなのですが、以前よりは「0.999… = 1」が納得できた気がします。
例えば、「宇宙」という言葉。
私たちは宇宙の中にいて、宇宙は無限の広がりを持っているように思えます。
しかし、「宇宙」と言葉にしてしまうと、宇宙の外に何かがあるような気もします。
このようなことを、言葉で説明するのは、難しい…。
認識の方法と表現の方法。
その代表格が「言葉」。
この辺りの興味は尽きることがありません。
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