2014/05/22

わもんな言葉77-手渡す

黒帯心徒塾in名古屋、つねちゃんタイム「トップランナーのあり方」。

今まで「手放す」と言っていたところが、「手渡す」になりました。

あるフレーズが浮かびます。

やぶちゃんに言わせると、「違う回路に入って」いました。


違う回路から出力された言葉は、「渡したものが私になる」。


五段活用をする動詞を名詞化するときには、語末の「-u」を「-i」に換えます。

「話す」の名詞形は「話」、「聞く」の名詞形は「聞き」、「読む」ならば「読み」、「書く」ならば「書き」、など。

「手渡す」ならば「手渡し」。

「手渡す」という言葉を聞いたとき、「手渡し」という言葉が浮かびます。


「トップランナーのあり方」では、何か得たものを手放し、また次のものを得ていくことが語られていました。

新しいものを手にして、それに執着するのではなく、手放し、また次のものを手にしていくことがトップランナーの特徴であるということです。

しかし、手放すというよりは、誰かに手渡す。

何かを手に入れて、そして、それが必要と思われる人に手渡していく。

そのような話を聞くうちに、「渡す」と「私」の対が生まれ、「渡したものが私になる」となったと思います。


他者を認識することで、自己認識が生まれるといいます。

誰かほかの人がいなければ、自分という概念はないのかもしれません。

誰かに何かを渡していくこと、伝えていくことが、「私」をかたち作っている大きな要素ではないか、と考えていました。


だからこそ、聞くことは、話をされる方を輝かせるのではないか、とも。


あなたは誰に何を渡していますか。

そして、「you」を「I」に換えて、私は誰に何を渡しているだろう。


聞けば叶う〜わもん入門
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2014/05/16

わもんな言葉76-信じる

森博詞さんの『ブラッド・スクーパ』より。
こうして突き詰めてみると、つまりは、己を信じることが難しいために、なにかほかのものに縋ろうとする、ということだろうか。それさえ手放さず大事にしていれば、自分は救われる、と考えるのだ。自分を信じることができるならば、最初からなにもいらない。刀も神も、祈ることも縋ることも無意味だ。しかし、その域に達することができるのは、よほどの達人あるいは高僧か。

私自身、自分を信じているかと問われれば、怪しい。

信じていないわけではないけれども、100%信じているかと問われれば、NOと答えるだろう。

「信じる」というのが言行一致のことならば、言ったことをやっていないことは多々あるし、やったことでも言っていないことも多々ある。

言いたいことを言えないときもあれば、やりたいことをやっていないときもある。


かといって、なにかほかのものに縋っているかと問われれば、こちらも怪しい。

祈ることも縋ることもしていない。

自分に対しても、他人に対しても、あるいはほかのものに対しても、どれも中途半端に信じている。


ただし、100%信じていないかと問われれば、こちらもNOと答えるだろう。

自分に対しても、他人に対しても、あるいはほかのものに対しても。


信じることに100%とも何もないのかもしれない。

しかし、自分を信じよう、とすることはできる。

自分の言っていることとやっていることが一致しているかどうかは確認することができる。


まずは、自分のできるところから。


ブラッド・スクーパ - The Blood Scooper (中公文庫)
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聞けば叶う〜わもん入門
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2014/05/02

わもんな言葉75-次元

「やぶちゃんの聞き方は次元が違う」という話を聞きました。

正直、「そこまで違うかな」と少し違和感を持ちました。

それはたぶん、「ものさし」が違うからだと思います。


やぶちゃんの聞き方は確かにすごい。

音を聞き分け、的確な言葉と音を返し、入れる。

話し手に瞬時に飛び込み、潜る。

私にはまだできないことです。

しかし、普通の聞き方の延長線上にある聞き方であると思っています。

まだ遠くなのかもしれませんが、聞き方を深めていけば誰しもが行ける、そんな風に思っています。


あらためて辞書で調べると、「次元」の項に2つの意味が載っていました。

ひとつは数学的な意味での「次元」。

ものの広がりを決める、一番基本的な方向(の数)。

もうひとつは、(段階によって違う)物の見方や立場、という意味です。


私の場合は、「次元」というと前者の意味に取っています。

次元は同じだけれども、深さが違う。

やぶちゃんの聞き方をこんな風に思っています。

言葉は違いますが、同じことです。


話し手の「ものさし」を取りこむのに少し時間がかかったようです。


聞けば叶う〜わもん入門
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2014/05/01

わもんな言葉74-管理三兄弟

「印象管理」「音の管理」「思念管理」。

やぶちゃんは、この3つを「管理三兄弟」と呼んでいます。

「だんご三兄弟」を文字っています。

となると、「どれが長男で、どれが次男で、どれが三男だろう?」と疑問に思う人が大半だと思いますが、やぶちゃんはその疑問に答えたことはありません(誰も質問していない可能性はあります)。


私の予想は、「印象管理」が長男、「音の管理」が次男、「思念管理」が三男です。

理由は、「管理三兄弟」の紹介の際、「印象管理」「音の管理」「思念管理」の順番で紹介されている、ということです。

(参考:http://yabuchan.jp/yablog/2014/02/28/081215/

三兄弟の紹介のときは、長男・次男・三男の順で紹介することがほとんどなので、順番に当てはめると「印象管理」が長男、「音の管理」が次男、「思念管理」が三男となります。


しかし、これだけでは理由としては弱いので、他の理由を挙げてみましょう。


「印象管理」とは、他の人からどのように見られるか、その印象を管理することです。

髪型や服装、身につける物、使っている道具、表情や身振り手振り、言動や行動など、主に見た目で印象は決まります。

声の調子や言葉遣い、これらも印象に影響します。

「音の管理」は、他の人にどのように聞こえるか、自分の発する音を管理すること。

自分の伝えたいことと音が合っているか、言葉と音が合っているか、出す音を意識し管理しようという提案です。

最後、「思念管理」は、自分がどのように思っているか、自分の思念を管理すること。

思念は音として、印象として、相手に伝わります。


思念が音となり、それが印象となって伝わるのであれば、「思念→音→印象」という順番が考えられますので、「思念」が長男、「音」が次男、「印象」が三男と考えることができますが、ここでは「思念」「音」「印象」ではなく、「思念管理」「音の管理」「印象管理」を考えています。

管理の側面から考えると、「印象管理」→「音の管理」→「思念管理」となるのではないでしょうか。

形あるもの、見えるもの、形式的なものの方が管理するのがたやすくなります。

管理が生まれる順番で考えると、「印象管理」が長男、「音の管理」が次男、「思念管理」が三男です。


そして、やぶちゃんは「音の管理」を中心に挙げます。

「だんご三兄弟」でも「自分が一番、次男♪次男♪」と歌っています♪



Dango San Kyoudai 投稿者 daisu

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