正岡子規は『獺祭書屋俳話』の中で「加賀の千代」と題して一節を割いている。「加賀の千代は俳人中尤有名なる女子なり。其の作る所の句も今日に残る者多く、俳諧社会の一家として古人に譲らざるの手際は幾多の鬚髯男子をして後に瞠若たらしむるもの少なからず」と書き、千代の句と支考の句を並べ比べて「俳諧にも、男でなければ、あるいは女でなければ、言うことができないことがある」と述べている。加賀の千代、加賀千代女は、江戸時代の女流俳人で、各務支考(蕉門十哲のひとり)とも交流があった。
次の句が、千代の代表句として知られている。
朝顔に釣瓶取られてもらひ水
しかし、この千代の句についての子規の批評は手厳しい。子規は『俳諧大要』において、次のように書いている。
朝顔の蔓が釣瓶に巻きつきてその蔓を切りちぎるに非ざれば釣瓶を取る能はず、それを朝顔に釣瓶を取られたといひたるなり。釣瓶を取られたる故に余所へ行きて水をもらひたるという意なり。このもらひ水という趣向俗極まりて蛇足なり。朝顔に釣瓶を取られたとばかりにてかへつて善し。それも取られてとは、最俗なり。ただ朝顔が釣瓶にまとひ付きたるさまをおとなしくものするを可とす。この句は人口に膾炙する句なれども俗気多くして俳句とはいふべからず。
〈朝顔に〉の句の解釈は、子規が述べているように、朝顔の蔓が釣瓶に巻きついていたので釣瓶を使うことができず、水をもらってきたということであろう。井戸から水を汲むために釣瓶を使いたいが、朝顔が巻きついている。引きちぎるのも忍びない。釣瓶は使わずそのままにして、水は余所からもらってこよう、ということである。朝顔を愛でる視線が伝わってくる。自然を愛おしむ気持ちが感じられる。
しかし、この子規の評を読み、よくよく考えてみると、子規が「俗極まりて」「俗気多くして」と言う気持ちがなんとなくわかる気がする。
この句が、千代の実生活から作られたものなのか想像から作られたものなのかは知らないが、仮に千代が、朝顔の釣瓶に巻きついているところを見て詠んだとすると、ちょっと嫌な書き方をするが、「私にはこんな気持ちがあるのですよ」と自慢しているようにも読めてしまうのだ。朝顔の美しさ、自然の美を詠めばいいのに、この句は人の優しい気持ち、自然を愛する気持ちを詠んでいる。そんな気持ちをわざわざ句として表現するということは俗であるということであろう。
〈朝顔に釣瓶取られて〉の「釣瓶」には助詞がついていないが、格助詞を補い、文のかたちにすると「朝顔に釣瓶を取られた」となるだろう。子規もそのように解釈している。この「朝顔に釣瓶を取られた」というのは文法用語でいうと間接受身である。対応する能動形は「朝顔が釣瓶を取った」ということになる。目的語が主語の位置にくる受身を直接受身といい、この例では「釣瓶が朝顔に取られた」とするのが直接受身である。間接受身は「被害の受身」「迷惑の受身」とも呼ばれることがあり、目的語はそのままに、被害者(被害というのが強すぎるなら被影響者といってもいい)が主語の位置にくる受身形である。〈朝顔に釣瓶取られて〉という表現には主語が明示されていないが、釣瓶を取られて迷惑を伴った人であり、〈もらひ水〉で表現されている誰かに水をもらいにいった人と同一人物であると解釈できる。
この句では、朝顔が釣瓶に巻きついているのを見て、釣瓶を使うことを止め、水をもらいにいった人物が主語であり、朝顔は主語ではない。朝顔よりも人物を主語に置くことを選択している。主語の位置は主題の位置でもあるので、人物を中心とした表現であると考えられる。
主題を人ではなく、朝顔にした方がいいのではないかというのが子規の評であろう。「もらひ水という趣向俗極まりて蛇足なり」「取られてとは、最俗なり」というのは、人が主題となってしまっていることを言っているのであろう。「ただ朝顔が釣瓶にまとひ付きたるさまをおとなしくものするを可とす」と、朝顔を主語とした言い方をしている。
Wikipedia「加賀千代女」を見ると、興味深いことが書かれていた。代表的な句としてこの〈朝顔に〉の句が挙げられているが、そこに「35歳の時に、朝顔や~
と詠み直される」と書かれていた。
朝顔に釣瓶取られてもらい水
朝顔や釣瓶取られてもらい水
個人的には〈朝顔や〉の方がいい。〈朝顔や〉とすることで、朝顔を主語とした解釈をすることができる。「朝顔が釣瓶を取られた」と読めなくもない。朝顔の視点からの表現で、釣瓶を水を汲むために取られてしまったという意味である。もちろん、元の〈朝顔に〉の句の情景のままで朝顔を強調するために〈朝顔や〉としたということかもしれないが、「朝顔が釣瓶を取られた」という解釈の方が面白く感じる。
水を汲もうと井戸に行くと、朝顔が釣瓶に巻きつこうと蔓を伸ばしていた。成長はうれしいが釣瓶に巻きつかれてしまうと困る。まだしっかりとは巻き付いていないので「朝顔さんちょっとごめんね」と、朝顔から釣瓶を取り上げて水を汲んだ。そして「さっきはごめんね」と汲み上げたばかりの水を朝顔にかけてあげる。こんな情景を朝顔の視点から描いた句として読むことができるのではないだろうか。
他にもこんな解釈をしている人はいないかと(大雑把にではあるが)ネット検索をしてみたがいないようである。ただ、〈朝顔や〉としている千代直筆のものが残っているということはわかった。