最近購入したがまだ読んでいない本について書こうと思った。今までも何度か書いたことがある。まだ読んでいない本について書こうと思ったのは、読みたい(あるいは、買いたい)と思った理由を記しておくことで、自分自身がどんなことに興味を持っているのか(持っていたのか)を思い出せるようにしたいためである。
読みたいと思った衝動(といえば大げさかもしれないが)は、本を買うときが最大であることが多い。買った後から実際に読みはじめる前まで、少しずつ衝動が減っていくように思う。また、読みはじめると当初の目的を忘れて読んでしまうことがある。買ったときの理由や考えを書くことで、読みはじめる前の自分の問題意識・課題意識を明確にしておくことができるかもしれないという試みである。読後に期待値とのズレを確認することができるかもしれないという思いもある。買ってしまったあとで、ときどき読まないまま積読となってしまうものもあるので、その牽制でもある。
ヴァシリー・カンディンスキー『点と線から面へ』(ちくま学芸文庫)
絵画や芸術は詳しくない。知識も感性も乏しいと思っている。しかし、カンディンスキーの名前は知っていて、コンポジション・シリーズを描いたロシアの抽象画家であることは知っている。コンポジションⅥかⅦかタイトルを覚えていないが、どこかで見かけた(もちろん本物ではなく写真)ときにいいなと思って、携帯電話の待受画面にしていたときがある。
カンディンスキーは、直線や曲線、三角形や円などの幾何学的な図を組み合わせて抽象画を描いている。知っていて何となくイメージが浮かぶのはコンポジション・シリーズだけである。その他にどのような絵を描いているのかは知らないが、コンポジション(composition)は「構成、構図」という意味なので、点と線を使った構成美を目指していたのではないかと思っている。
本のタイトルは『点と線から面へ』である。数学的には、点は大きさのない点、線は太さのない線である。現実には存在しない。数学関係の本(講談社ブルーバックスの何かの本だったと思う)で、線のイメージとして、紙をカッターナイフで切った切り口を線と思えばイメージしやすいのではないかと書いていたことを思い出した。
カンディンスキーは抽象画のはしりの画家だったと思う。数学も抽象的なことを扱っている。カンディンスキーがどのような考えで抽象画を書いていたのか、抽象的な思考はどのようなものか。抽象的な思考について、芸術面からはどのように見えるのか。理解できるかどうかはわからないが、抽象思考についての切り口となるようなものを求めて読んでみたいと思った。本のカバーデザインもシンプルでいい。
気になってWEBで調べてみると、携帯の待受にしていたのは「コンポジションⅧ」(1923年)であった。
2017/05/26
2017/05/25
ウンベルト・エーコ『バウドリーノ』【未読】
ウンベルト・エーコ『バウドリーノ(上・下)』(岩波文庫)
まだ読んでいない。
ウンベルト・エーコは好きな作家のひとりである。単行本を買うまではいかないが、文庫本が出るとつい買ってしまう。単行本も文庫本もこれからどのような本が出るのかということは積極的にチェックはしておらず、本屋で見かけた場合という条件がつく。
名古屋駅に用事があったので出かけた。用事が終わり、帰るには少し時間があったので4月にオープンしたタカシマヤゲートタワーモールの三省堂書店名古屋本店に行ってきた。
大きな本屋であるかどうかの判断基準として、売り場面積や書籍数という基準もあるが、岩波文庫・岩波新書の冊数がどれだけあるのかというのも参考になると思う。岩波書店は買取制で本屋に卸しているため、岩波書店の本を多く取り扱っている本屋は買い取り資金があるということであるし、そのために売り場を設けるということは広さも十分あるということになる。文庫や新書は出版社別に並べられることが多い。
そのため、本屋では岩波文庫・岩波新書の棚をチェックする。小さな本屋では岩波文庫を置いていないところも多い。三省堂書店でも同様に岩波文庫の棚に向かった。
『パウドリーノ』は岩波文庫の棚で目立っていた。岩波文庫にしては珍しいカバーデザインだったからである。もともとエーコの小説は好きであるし、岩波文庫の本は次に出会う確率も少ないので「買い」である。
家に帰って本を取り出すと、カバーが少しズレていた。直そうとしたところ、カバーが二重になっていたことに気づき、一枚めくってみるといつもの岩波文庫のカバーが出てきた。
目立っていたカバーは、文庫本大の帯なのかもしれない。しかし、どちらのカバーにもカバーデザインをされた方の名前が入っていて、図版は異っていたので、少なくとも岩波書店としてはカバー扱いであろう。
内容は読んではいないが、『バウドリーノ』は、カバーの文言から『中世騎士物語』を題材にしているようである。『中世騎士物語』はブルフィンチが書いたものを読んだことがあり、アーサー王物語や聖杯伝説などが思い起こされる。エーコの『薔薇の名前』や『フーコーの振り子』などは他に参照する本が手元になかった。しかし、今回の『バウドリーノ』は、手元にブルフィンチの『中世騎士物語』があるため読み比べていくことになるかもしれない。
まだ読んでいない。
ウンベルト・エーコは好きな作家のひとりである。単行本を買うまではいかないが、文庫本が出るとつい買ってしまう。単行本も文庫本もこれからどのような本が出るのかということは積極的にチェックはしておらず、本屋で見かけた場合という条件がつく。
名古屋駅に用事があったので出かけた。用事が終わり、帰るには少し時間があったので4月にオープンしたタカシマヤゲートタワーモールの三省堂書店名古屋本店に行ってきた。
大きな本屋であるかどうかの判断基準として、売り場面積や書籍数という基準もあるが、岩波文庫・岩波新書の冊数がどれだけあるのかというのも参考になると思う。岩波書店は買取制で本屋に卸しているため、岩波書店の本を多く取り扱っている本屋は買い取り資金があるということであるし、そのために売り場を設けるということは広さも十分あるということになる。文庫や新書は出版社別に並べられることが多い。
そのため、本屋では岩波文庫・岩波新書の棚をチェックする。小さな本屋では岩波文庫を置いていないところも多い。三省堂書店でも同様に岩波文庫の棚に向かった。
『パウドリーノ』は岩波文庫の棚で目立っていた。岩波文庫にしては珍しいカバーデザインだったからである。もともとエーコの小説は好きであるし、岩波文庫の本は次に出会う確率も少ないので「買い」である。
家に帰って本を取り出すと、カバーが少しズレていた。直そうとしたところ、カバーが二重になっていたことに気づき、一枚めくってみるといつもの岩波文庫のカバーが出てきた。
目立っていたカバーは、文庫本大の帯なのかもしれない。しかし、どちらのカバーにもカバーデザインをされた方の名前が入っていて、図版は異っていたので、少なくとも岩波書店としてはカバー扱いであろう。
内容は読んではいないが、『バウドリーノ』は、カバーの文言から『中世騎士物語』を題材にしているようである。『中世騎士物語』はブルフィンチが書いたものを読んだことがあり、アーサー王物語や聖杯伝説などが思い起こされる。エーコの『薔薇の名前』や『フーコーの振り子』などは他に参照する本が手元になかった。しかし、今回の『バウドリーノ』は、手元にブルフィンチの『中世騎士物語』があるため読み比べていくことになるかもしれない。
2017/05/15
いまどこにいるのか
引き続き石田英敬さんの『現代思想の教科書』より。
石田さんは、今日における知と世界の関係について、「四つのポスト状況」という認識をしている。四つのポスト状況とは次の四つである。
「ポスト(post)」とは「○○以後、○○以降」という意味で、「ポスト・グーテンベルク状況」というのは、「グーテンベルク以後の状況」という意味である。
グーテンベルクといえば、活版印刷である。活版印刷はルネサンスにおける三大発明のひとつとされている(残り二つは、羅針盤と火薬)。活版印刷技術の発明発展は、書籍や新聞をはじめとする活字メディアを発展させた。本は知識の代名詞ともなり、知識の伝達流通が文化文明の発達に寄与し、生活も変化させた。「ポスト・グーテンベルク状況」というのは、活字メディアの文明圏が一区切りついて、次の段階へ入っているということである。大きな流れとしては、通信技術・情報技術の向上。書籍や新聞だけでなく、電話・ラジオ・テレビ・インターネットなど、様々なメディアが増えてきた。生活スタイルも変化し、社会も変化する。
「ポスト・モダン状況」は「近代(モダン)」が一区切りついた状況である。「啓蒙の時代」「理性による世界の進歩」など、近代的な価値観、世界観が少しずつ崩れはじめた状況である。「先進国」と「発展途上国」という言葉が示す価値観文明観、あるいは西洋至上主義など、絶対的な価値観が相対化され、多様化の時代に入ってきた。
「ポスト・ナショナル状況」は、単純に言えばグローバル化である。国民国家の枠組みを基礎としていたシステムは近代を特徴づけていたが、その枠組みの外、地球規模・宇宙規模の問題を解決する必要性も出てきた。国民国家を再考する時代である。
そして「ポスト・ヒューマン状況」は、元来人間が行なってきた活動が機械や情報によって担われている状況を指している。最近では人工知能(AI)がキーワードとして挙げられる。コンピューターの発達により、記憶の外部化が進んでいる。知能の外部化が進むことで私たちにどのような変化が訪れるのか。
以上の四つのポスト状況は四つに分けられるという意味ではなく互いに絡み合った状況であることを示している。『現代思想の教科書』は、主に20世紀の思想を追うことで現在の状況を理解し、これからの時代を見、これからどのように生きていくかを考えることを目的としている。
歴史は、終わった後で区切りをつけられ、名付けられる。近代(モダン)は区切られたが、現代はまだ「ポスト状況」であり、特徴づけられていない。過渡期である。「いま」というのはいつでも過渡期であるかもしれないが、変化の激しい時代であるということは間違いなさそうである。
流されるもよし、逆行するもよし。ただ、自分がどこにいるのかは認識しておきたい。
石田さんは、今日における知と世界の関係について、「四つのポスト状況」という認識をしている。四つのポスト状況とは次の四つである。
- ポスト・グーテンベルク状況
- ポスト・モダン状況
- ポスト・ナショナル状況
- ポスト・ヒューマン状況
「ポスト(post)」とは「○○以後、○○以降」という意味で、「ポスト・グーテンベルク状況」というのは、「グーテンベルク以後の状況」という意味である。
グーテンベルクといえば、活版印刷である。活版印刷はルネサンスにおける三大発明のひとつとされている(残り二つは、羅針盤と火薬)。活版印刷技術の発明発展は、書籍や新聞をはじめとする活字メディアを発展させた。本は知識の代名詞ともなり、知識の伝達流通が文化文明の発達に寄与し、生活も変化させた。「ポスト・グーテンベルク状況」というのは、活字メディアの文明圏が一区切りついて、次の段階へ入っているということである。大きな流れとしては、通信技術・情報技術の向上。書籍や新聞だけでなく、電話・ラジオ・テレビ・インターネットなど、様々なメディアが増えてきた。生活スタイルも変化し、社会も変化する。
「ポスト・モダン状況」は「近代(モダン)」が一区切りついた状況である。「啓蒙の時代」「理性による世界の進歩」など、近代的な価値観、世界観が少しずつ崩れはじめた状況である。「先進国」と「発展途上国」という言葉が示す価値観文明観、あるいは西洋至上主義など、絶対的な価値観が相対化され、多様化の時代に入ってきた。
「ポスト・ナショナル状況」は、単純に言えばグローバル化である。国民国家の枠組みを基礎としていたシステムは近代を特徴づけていたが、その枠組みの外、地球規模・宇宙規模の問題を解決する必要性も出てきた。国民国家を再考する時代である。
そして「ポスト・ヒューマン状況」は、元来人間が行なってきた活動が機械や情報によって担われている状況を指している。最近では人工知能(AI)がキーワードとして挙げられる。コンピューターの発達により、記憶の外部化が進んでいる。知能の外部化が進むことで私たちにどのような変化が訪れるのか。
以上の四つのポスト状況は四つに分けられるという意味ではなく互いに絡み合った状況であることを示している。『現代思想の教科書』は、主に20世紀の思想を追うことで現在の状況を理解し、これからの時代を見、これからどのように生きていくかを考えることを目的としている。
歴史は、終わった後で区切りをつけられ、名付けられる。近代(モダン)は区切られたが、現代はまだ「ポスト状況」であり、特徴づけられていない。過渡期である。「いま」というのはいつでも過渡期であるかもしれないが、変化の激しい時代であるということは間違いなさそうである。
流されるもよし、逆行するもよし。ただ、自分がどこにいるのかは認識しておきたい。
2017/05/14
現代思想とのきっかけ
石田英敬さんの『現代思想の教科書』を読んだ。現代思想とは何か、いま世の中でどのようなことが考えられているのかを知りたいと思ったからである。
まずどのようなことが現代思想なのかを知らない。思想というのも何となく哲学的なものというイメージしかない。おそらくは聞きかじったことがあることが多いのだろうが、このあたりで現代思想について少し整理したいというのがきっかけである。
『現代思想の教科書』には「世界を考える知の地平15章」という副題がついている。サブタイトルどおり15章で構成されていて、章題は以下である。
大学生のとき、言語学という分野があることを知った。別に授業で習ったというわけではなく、大学生協の本屋で言語学に出会った。フランソワーズ・ガデという人の『ソシュール言語学入門』という本である。ソシュールというのが誰なのかも、言語学というのがどのような学問なのかも知らなかったが、紫がかったピンク色の表紙で平積みされ目立っていた。大学1年生のときである。
英語学、国語学という分野があることは知っていた。英語学を専攻しようと思ってはいたが、専門課程の授業は2年生からであったため英語学が何であるのかも知らず、言語学という名前を知ったのは『ソシュール言語学入門』が最初だと思う。「入門」と付いていたので、読んでみようという気になり買った。
『ソシュール言語学入門』は、ソシュールが書いた(正確には、ソシュールの講義を受けた人の講義ノートをまとめた)『一般言語学講義』という本の解説であった。大学の授業で使われる本以外で専門書(?)を買って読んだのは初めてである。通読しても、あまりよくわからなかった。ただ、そこから言語学に関する本を独自に読みはじめるいいきっかけになった。
大学で何を専攻していたかと問われれば「言語学」と答えている。3年生か4年生のときに言語学科ができ、そこでの講義やゼミに参加していたが、所属としては文学部英米文学科の英語学専攻である。偶然ではあるが、言語学の勉強を先取りしていた。
『現代思想の教科書』はソシュールからはじまっていた。私と同じではないかと現代思想に親近感を持った。
まずどのようなことが現代思想なのかを知らない。思想というのも何となく哲学的なものというイメージしかない。おそらくは聞きかじったことがあることが多いのだろうが、このあたりで現代思想について少し整理したいというのがきっかけである。
『現代思想の教科書』には「世界を考える知の地平15章」という副題がついている。サブタイトルどおり15章で構成されていて、章題は以下である。
- 「現代思想とは何か」
- 「言語の世紀」の問い
- 記号とイメージの時代
- 無意識の問い
- 文化の意味
- 欲望とは何か
- 権力と身体
- 社会とは何か
- 情報とメディアの思想
- 文化産業と想像力
- 戦争について
- 宗教について
- ナショナリズムと国家
- 差異と同一性の共生原理
- 総括と展望
大学生のとき、言語学という分野があることを知った。別に授業で習ったというわけではなく、大学生協の本屋で言語学に出会った。フランソワーズ・ガデという人の『ソシュール言語学入門』という本である。ソシュールというのが誰なのかも、言語学というのがどのような学問なのかも知らなかったが、紫がかったピンク色の表紙で平積みされ目立っていた。大学1年生のときである。
英語学、国語学という分野があることは知っていた。英語学を専攻しようと思ってはいたが、専門課程の授業は2年生からであったため英語学が何であるのかも知らず、言語学という名前を知ったのは『ソシュール言語学入門』が最初だと思う。「入門」と付いていたので、読んでみようという気になり買った。
『ソシュール言語学入門』は、ソシュールが書いた(正確には、ソシュールの講義を受けた人の講義ノートをまとめた)『一般言語学講義』という本の解説であった。大学の授業で使われる本以外で専門書(?)を買って読んだのは初めてである。通読しても、あまりよくわからなかった。ただ、そこから言語学に関する本を独自に読みはじめるいいきっかけになった。
大学で何を専攻していたかと問われれば「言語学」と答えている。3年生か4年生のときに言語学科ができ、そこでの講義やゼミに参加していたが、所属としては文学部英米文学科の英語学専攻である。偶然ではあるが、言語学の勉強を先取りしていた。
『現代思想の教科書』はソシュールからはじまっていた。私と同じではないかと現代思想に親近感を持った。
2017/05/06
Reverse EVIL to LIVE
数年前、わもん日めくりカレンダーのフレーズを英訳してみようという活動があった。わもんが世界へ広がる事前準備のため、また、異なる言語で表現することで、わもんの言葉のさらなる理解を深めるため、まずは、わもん日めくりカレンダーの短いフレーズの日本語を英語へ翻訳してみようという動きである。
そのなかで、気に入っているフレーズが、タイトルにある「Reverse EVIL to LIVE」である。日めくりカレンダーに採用されているわけではない。自分が作って自分が気に入っているだけである。直訳すると「災いを生にひっくり返せ」という意味である。
「evil」を逆から読むと「live」となることから作った。「evil」と「live」の綴りが逆であるというのは、柳瀬尚紀さんの『日本語は天才である』に書かれていたエピソードで知った。柳瀬さんが、日本語は天才であると考えたきっかけのひとつとして次のようなことが紹介されていた。
『不思議の国のアリス』でおなじみの、ルイス・キャロルが作った妖精物語を翻訳しようとしていたときのことである。姉の妖精シルヴィーは、弟ブルーノに言葉を教えていた。シルヴィーが「evil」と書いて何と読むかブルーノに質問した。ブルーノはわからなかったがしばらく考え、逆から読んで「live」と答えた。
このような物語をどう翻訳するか。簡単なのは、英語の綴りを書いて説明書きを入れることであるが、言葉遊びを説明するのは芸がない。柳瀬さんは考え、漢字を使って「咎―各人」と訳した。そして独創だと思っていたが、漢字の成り立ちを調べると「咎」は「各+人」であったので「日本語は天才である」と思ったらしい。
このエピソードから「evil」と「live」の関係を知ったのだが、タイトルの「Reverse EVIL to LIVE」というフレーズを作ったのは、日めくりカレンダーの9日のフレーズ「心の砂出し」からである。「不平不満は心の砂。スッキリと砂を出したら、本当の自分が光り出します。」という短い説明文がついている。「心の砂出し」と「Reverse EVIL to LIVE」は、一見結びつかない。ここには、私のなかで、もうひとつ中継地点がある。
それは、「吐けば叶う」というフレーズである。漢字「吐(く)」から「-(マイナス)」を取ると「叶(う)」になる。「-(マイナス)」は「砂出し」である。
「心の砂出し」の英訳を考えているとき、「心の砂出し」の説明文から「吐けば叶う」を連想した。それは漢字の言葉遊びであり、柳瀬さんのエピソードを思い出し、「Reverse EVIL to LIVE」とした次第。
「逆から読む」という英語を知らないが、「ひっくり返す、逆さにする」という意味で「reverse」がいいかと思った。「reverse」は「re-(後ろ)」+「-verse(詩、韻文)」であるため、言葉遊び的な雰囲気が出るだろう。「evil」「live」のv音と、「reverse」のv音がつながっているのもいい。
言葉遊びの要素がたくさん詰まっているので、「Reverse EVIL to LIVE」というフレーズは気に入っている。そして日本語訳は「吐けば叶う」だと思ってる。
そのなかで、気に入っているフレーズが、タイトルにある「Reverse EVIL to LIVE」である。日めくりカレンダーに採用されているわけではない。自分が作って自分が気に入っているだけである。直訳すると「災いを生にひっくり返せ」という意味である。
「evil」を逆から読むと「live」となることから作った。「evil」と「live」の綴りが逆であるというのは、柳瀬尚紀さんの『日本語は天才である』に書かれていたエピソードで知った。柳瀬さんが、日本語は天才であると考えたきっかけのひとつとして次のようなことが紹介されていた。
『不思議の国のアリス』でおなじみの、ルイス・キャロルが作った妖精物語を翻訳しようとしていたときのことである。姉の妖精シルヴィーは、弟ブルーノに言葉を教えていた。シルヴィーが「evil」と書いて何と読むかブルーノに質問した。ブルーノはわからなかったがしばらく考え、逆から読んで「live」と答えた。
このような物語をどう翻訳するか。簡単なのは、英語の綴りを書いて説明書きを入れることであるが、言葉遊びを説明するのは芸がない。柳瀬さんは考え、漢字を使って「咎―各人」と訳した。そして独創だと思っていたが、漢字の成り立ちを調べると「咎」は「各+人」であったので「日本語は天才である」と思ったらしい。
このエピソードから「evil」と「live」の関係を知ったのだが、タイトルの「Reverse EVIL to LIVE」というフレーズを作ったのは、日めくりカレンダーの9日のフレーズ「心の砂出し」からである。「不平不満は心の砂。スッキリと砂を出したら、本当の自分が光り出します。」という短い説明文がついている。「心の砂出し」と「Reverse EVIL to LIVE」は、一見結びつかない。ここには、私のなかで、もうひとつ中継地点がある。
それは、「吐けば叶う」というフレーズである。漢字「吐(く)」から「-(マイナス)」を取ると「叶(う)」になる。「-(マイナス)」は「砂出し」である。
「心の砂出し」の英訳を考えているとき、「心の砂出し」の説明文から「吐けば叶う」を連想した。それは漢字の言葉遊びであり、柳瀬さんのエピソードを思い出し、「Reverse EVIL to LIVE」とした次第。
「逆から読む」という英語を知らないが、「ひっくり返す、逆さにする」という意味で「reverse」がいいかと思った。「reverse」は「re-(後ろ)」+「-verse(詩、韻文)」であるため、言葉遊び的な雰囲気が出るだろう。「evil」「live」のv音と、「reverse」のv音がつながっているのもいい。
言葉遊びの要素がたくさん詰まっているので、「Reverse EVIL to LIVE」というフレーズは気に入っている。そして日本語訳は「吐けば叶う」だと思ってる。
2017/05/04
トゥモロウ・スピーチ
松岡和子さんの『深読みシェイクスピア』で、「トゥモロウ・スピーチ(Tomorrow Speech)」という言葉を知った。シェイクスピア『マクベス』第五幕第五場でのマクベスの独白部分のことである。このトゥモロウ・スピーチについて、松岡さんは「音と意味とイメージのつながりがパーフェクト!」であるという。
洞窟の比喩は、プラトンの『国家』のなかでソクラテスが言ったこととして記述されている。『国家』を読んだことはないが、洞窟の比喩については言及を見ることがある。Wikipediaにも「洞窟の比喩」という項目があった。
私が洞窟の比喩で思い出した本は、小林秀雄さんの『考えるヒント』である。確認のため、『考えるヒント』に収められている「プラトンの「国家」」をあらためて読むと、文脈は異なるが、私の勝手な関連づけがはじまった。
「プラトンの「国家」」のなかで、小林さんは以下のように書いている。
もしかするとマクベスは、束の間の灯火であったかもしれないが、洞窟の比喩での光源を見たのではないか。そして、洞窟の比喩を語り終えると自分の死を予言したのではないか。そんな勝手な想像が生まれた。
『マクベス』はまだ読み返していない。明日にしよう。
To-morrow, and to-morrow, and to-morrow,音と意味とイメージがどのようにつながっているかということは『深読みシェイクスピア』を読んでいただくこととして、私はこの部分を読んで、ソクラテスの「洞窟の比喩」を思い出した。
Creeps in this petty pace from day to day,
To the last syllable of recorded time;
And all our yesterdays have lighted fools
The way to dusty death. Out, out, brief candle!
Life's but a walking shadow, a poor player,
That struts and frets his hour upon the stage,
And then is heard no more: it is a tale
Told by an idiot, full of sound and fury,
Signifying nothing.
明日も、明日も、また明日も、
とぼとぼと小刻みにその日その日の歩みを進め、
歴史の記述の最後の一言にたどり着く。
すべての昨日は、愚かな人間が土に還る
死への道を照らしてきた。消えろ、消えろ、束の間の灯火!
人生はたかが歩く影、哀れな訳者だ、
出場のあいだは舞台で大見得を切っても
袖へ入ればそれきりだ。
白痴のしゃべる物語、たけり狂うわめき声ばかり、
筋の通った意味などない。
――松岡和子訳『マクベス』
洞窟の比喩は、プラトンの『国家』のなかでソクラテスが言ったこととして記述されている。『国家』を読んだことはないが、洞窟の比喩については言及を見ることがある。Wikipediaにも「洞窟の比喩」という項目があった。
私が洞窟の比喩で思い出した本は、小林秀雄さんの『考えるヒント』である。確認のため、『考えるヒント』に収められている「プラトンの「国家」」をあらためて読むと、文脈は異なるが、私の勝手な関連づけがはじまった。
「プラトンの「国家」」のなかで、小林さんは以下のように書いている。
もし囚人のなかに一人変り者がいて、非常な努力をして、背後を振りかえり、光源を見たとしたら、彼は、人間達が影を見ているに過ぎない事を知るであろうが、闇に慣れていた眼が光でやられるから、どうしても行動がおかしくなる。影の社会で、影に準じて作られた社会のしきたりの中では、胡乱臭い人物にならざるを得ない。人間達は、そんな男は、殺せれば殺したいだろう、とソクラテスは言う。つまり、彼は洞窟の比喩を語り終ると直ぐ自分の死を予言するのである。マクベスは夫人と共謀し、国王ダンカンを暗殺し王位を得る。そしてその地位を守るため罪を重ねていく。冒頭の「トゥモロウ・スピーチ」は、夫人が亡くなったという知らせを受けた直後の独白である。そしてその後、バーナムの森が動き戦いがはじまり、その戦いでマクベスは殺される。
もしかするとマクベスは、束の間の灯火であったかもしれないが、洞窟の比喩での光源を見たのではないか。そして、洞窟の比喩を語り終えると自分の死を予言したのではないか。そんな勝手な想像が生まれた。
『マクベス』はまだ読み返していない。明日にしよう。
2017/05/03
自分史からはじめてみよう
ここ最近、何かを書きたいという思いが強くなっている。しかし、その「何か」がわからない。
思いが強くなったきっかけはわかっている。渡部昇一さんが亡くなったためである。数日前にこのブログでも取り上げた。渡部昇一さんの『知的生活の方法』に影響を受けて本を読みはじめたという内容である。
渡部昇一さんが亡くなったが、不思議と寂しいとか悲しいとかの気持ちにならなかった。本が手元に残っていたからである。全ての著作を読んでいるわけではないし、そもそもの専門分野である英語学に関する著書や論文はほとんど読んでいないので一面的な理解にすぎないが、渡部昇一さんの考え方、あるいは思想が、本というかたちで残っている。実際に会ったことがないことも関係しているだろう。お会いして親しくしていれば悲しんだかもしれない。
本が残っていたことで、自分も本を書いてみたいという思いが強くなった。
残したいことは、自分の考え方、あるいは思想、となるだろうが、ごく平凡に深く考えることもなく生きているので、書き残したいということが思いつかない。
それでも自分の人生を生きてきたのは自分だけであるため、自分以外の人とは異なる人生を送ってきたのは確かであるし、何かしら大切なことも学び、経験しているかとも思っている。
だからまずは、自分史からはじめてみようと思う。このブログに掲載することはないと思う。
思いが強くなったきっかけはわかっている。渡部昇一さんが亡くなったためである。数日前にこのブログでも取り上げた。渡部昇一さんの『知的生活の方法』に影響を受けて本を読みはじめたという内容である。
渡部昇一さんが亡くなったが、不思議と寂しいとか悲しいとかの気持ちにならなかった。本が手元に残っていたからである。全ての著作を読んでいるわけではないし、そもそもの専門分野である英語学に関する著書や論文はほとんど読んでいないので一面的な理解にすぎないが、渡部昇一さんの考え方、あるいは思想が、本というかたちで残っている。実際に会ったことがないことも関係しているだろう。お会いして親しくしていれば悲しんだかもしれない。
本が残っていたことで、自分も本を書いてみたいという思いが強くなった。
残したいことは、自分の考え方、あるいは思想、となるだろうが、ごく平凡に深く考えることもなく生きているので、書き残したいということが思いつかない。
それでも自分の人生を生きてきたのは自分だけであるため、自分以外の人とは異なる人生を送ってきたのは確かであるし、何かしら大切なことも学び、経験しているかとも思っている。
だからまずは、自分史からはじめてみようと思う。このブログに掲載することはないと思う。
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