大学生のときに、教育実習に行ったことがあります。
先生になりたいということは特に思っていませんでした。
しかし、せっかく大学に入ったのだから教員免許の資格を取っておこう、そして、教育実習の経験がどこかで役に立つかもしれない、そのような軽い気持ちで教育実習に参加しました。
そのような気持ちを知ってか知らずか、教育実習初日のオリエンテーションの際、教育実習担当の先生に釘を刺されます。
「この中には、先生になりたいと思っている人も、思っていない人もいると思う。しかし、生徒は、皆さんを将来先生になる人だと見ている。もし、現時点では先生になる気がなかったとしても、『先生になる気はない』というようなことを生徒には話さないでほしい」
このようなことを言われました。
そして、教育実習が始まりました。
クラスのホームルームも担当しました。
私が前に立って、生徒の質問を受けるという機会です。
「なぜ、先生になりたいと思ったのか?」
生徒からそのような質問がでてくるのは予想できることですので、問われたらこう答えようと準備をして臨みました。
案の定、「なぜ、先生になりたいと思ったのですか?」という質問がでました。
用意した答えを言おうと思っていましたが、緊張もあり躊躇しました。
そして、回答として出した最初、次の言葉を言いました。
「別に先生にはなりたいと思っていない」
言ってはいけないことを言ったなと頭の片隅では考えていましたが、生徒たちの真剣な目がこちらに向いているのを感じ、今は作られた回答よりは現時点での本当の考えを伝えたほうがいいと感じました。
そして、言葉を続けます。
「先生になりたいと思っていないというのは、先生になるのが嫌だというわけではない。『虎は死して皮を残し、人は死して名を残す』という言葉があるが、自分の名前を残したいと思っている。名前を残すというのも有名になるというわけではなく、誰かの心に残るような人になりたい。先生はその選択肢のひとつではある。実際、A先生(担当したクラスの先生)は私の心に残っている」
このようなことを言いました。
「名前を残したい」ということは、それまで考えたことがありませんでした。
しかし、この経験から、私は今でも、「名前を残したい」ということを意識するようになりました。
教育実習での出来事は、わもんと出会う前の経験ではありますが、思い返すと、生徒たちの聞く姿勢とそれにふさわしい場があったため、上っ面の回答はできないと感じたのではないかと思っています。
「先生になる気はない」ということを言ってはいけないと外から言われたことを守るより、自分の思いを素直に話したほうがいいと感じて、そのようにした。
この経験では、話し手が私で、聞き手は生徒たち。生徒たちの聞く力が、私の中にあった思いを引き出してくれた経験です。
自分の中の制限に気づき、その制限を超えた経験でした。
生徒や教育現場に限らず、聞く力、場の力はどのような人にもあります。
聞く力が深まると、場も深まります。
場が深く整っていれば、気づきを促しやすくなります。
聞く力を深めることで、気づきを促す場づくりができます。
教育の現場にも「わもん」は有効かもしれません。
聞けば叶う〜わもん入門
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