副題は「輝くあなたに出逢うフラワーセラピー」
わもん仲間のみかちゃんが講師です。
普段、花を愛でることもなく、こんな機会でもなければ一生、生け花をすることもなかったと思います。
さて、わもんと生け花の関係は何か、と考えているとき、多田道太郎『しぐさの日本文化』所収の「いけばな」と題されたエッセイを読みました。
その一節。
いけばなは、日本人の身振りの転換したものである。異論があるかもしれないが、私はそう思っている。床の間のいけばなを見ると、私はそれをいけた女性の、ふだんは表現しようと思っても表現できない微妙な彼女のしぐさをそこに見るのである。あるいはそこに「読む」のである。女性に限らず男性でも、普段は表現しないできないしぐさはあります。
そういったしぐさを生け花という目に見えるかたちに託してみる。
そして生け花を見る人は、生けた人のしぐさをそこに見ます。
あるいは読みます。
また、同書所収の「つながり」というエッセイには、以下の文章もあります。
いけばなは人と人をつなぐ。これが私の考えである。女は物言わぬがよし、と古来されてきている。その物言わぬ存在が、いけばなに自らを託すことによって、人と人とをつなぐ強力な媒体となりうる。物言う客と主人とをつなぐことで、物言う人びとよりも、もっと意味深いことを言う、そういう存在になる。
「わもん花縁」参加後、参加メンバーで話をするなかで、「『壁打ちわもん』だね」という共通する意見がありました。
生け花が壁となり、生けた人と見る人をつなぐ。
あるいは、生けた人と自分をつなぐ。
『しぐさの日本文化』の中では、「しぐさ」とは「抑制のきいたゼスチャア」「舞台の上での身振り」としています。
壁打ちわもんをするときには、普段の自分を抑制した話し方をします。
生け花にも聞き方のコツがあるように思います。
そして、生け花を媒介として、生けた自分と輝く自分が出逢ったとき、その生け花も輝いているような気がしてなりません。
しぐさの日本文化 (講談社学術文庫)
聞けば叶う〜わもん入門