やぶちゃんに出会う前からです。
このブログの未完了記事のひとつ(^-^;)
今思うと、言語の中の「離我」を捉えようという試みだったと思います。
「『(ら)れる』のコーチング論」というのを大まかに言うと、日本語の助動詞「(ら)れる」の4つの意味「受身」「可能」「尊敬」「自発」を統一的に扱えないか、そして、その統一的な構造をコーチングに応用できないか、というものです。
冒頭でも述べましたが、今のところ未完です。
そんな中で、「わもん」のことを知り、「離我」という言葉を知りました。
そして、最近、以下の文言がヤブログにアップされました。
『やぶちゃんのSNS(そう・なれば・すごい)』
■人を動かす→人が動き出す→人が走り出す
ここに表現されていることと「『(ら)れる』のコーチング論」はつながっているのですが、まだ人に上手くは説明できない状態です。
以下、「『(ら)れる』のコーチング論」のことは脇に置いて、「人を動かす→人が動き出す→人が走り出す」を見ていきたいと思います。
「人を動かす」「人が動き出す」「人が走り出す」。
最初の「人を動かす」と、後の2つ「人が動き出す」「人が走り出す」は、主語が異なります。
「人が動き出す」「人が走り出す」では、主語は「人」です。
「動き出す」「走り出す」のは、主語である「人」。
一方「人を動かす」では、主語は省略されていますが、「動かす」のは文中に現れている「人」ではありません。
「(私が)人を動かす」「(誰かが)人を動かす」です。
主語を「私」としたとき、「私が人を動かす」となります。
「私」が離れて、「人」が主役になることで、「人が動き出す」「人が走り出す」。
「『(ら)れる』のコーチング論」で考えていることは、ここの仕組みです。
(興味がある方は以下もご参照ください)
聞けば叶う〜わもん入門
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