2014/04/17

わもんな言葉73-絶対肯定

一昔前、といっても二、三年前のことですが、黒帯心徒塾がまだ心徒塾だった頃、やぶちゃんが毎回のように言っていた言葉がありました。

その言葉とは、「受身厳禁」「油断大敵」。

いつしかあまり聞かなくなりました。

その代わりに、前回のわもんな言葉「間がさす」の中で取り上げた、「結界を張る」と言うことが多くなったように思います。

それが偶然なのか必然なのか、意識的なのか無意識的なのか、はたまた私の勝手な思い込みなのか。

実際のところはわかりませんが、私は以下のように考えます。


マザー・テレサの言葉の中に、「私は反戦運動には参加しないが、平和運動なら参加する」という旨の言葉があります。

実際の活動は、反戦運動も平和運動も変わりないかもしれません。

しかし、「反戦運動」という言葉は、戦いに反対する運動を意味します。

戦いがあることを前提とした運動になります。

戦いがあるから、戦いに反対する運動という意味です。

一方、「平和運動」という言葉は、平和に向けた運動という意味で、戦いがあることは前提としていません。


「受身厳禁」「油断大敵」という言葉は、「受身である」こと、「油断がある」ことを前提とした言葉です。

受身であることを否定する、油断することを否定する意味が含まれています。

そういった言葉を使わない、意識的にか無意識的にか、使わなくなり、代わりに「結界を張る」と言うことが多くなったのではないか、と勝手に考えています。


目標設定やアファメーションの方法として、「肯定形を使う」ということがポイントとしてよく挙げられます。

否定形は肯定形を前提とした言葉です。

「脳は否定形を理解できない」ということもよく聞きますが、否定形を理解できないわけではなく、否定したいもの(ここでは肯定形)をも理解しているためだと思っています。


さらにマザー・テレサの言葉を挙げます。
思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。
言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。
行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。
習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから。
性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから。


聞けば叶う〜わもん入門
聞けば叶う〜わもん入門

2014/04/11

わもんな言葉72-間がさす

「魔が差す」という言葉があります。

手元の辞書を引くと、「悪魔がふとあらわれる。〔ふと悪い考えが起こったときに使うことば〕」という意味が載っていました。

少し意外に思ったのは、「魔がさす」の「さす」という語を漢字で書くと「差す」だったことです。

今まで何となく「刺す」だと思っていました。


試しに「差す」を辞書で引くと、
①表面にあらわれる。「赤みが――・いや気が――」
②〔影が〕うつる。「障子に影が――」
などの意味が載っています。

悪魔のささやきが言葉や行動にふと顕れる、あるいは悪魔の影が言動にうつるのが「魔が差す」です。


やぶちゃん曰く、「『魔がさす』は『間がさす』ではないか。」

この「間がさす」の話をするときに合わせて出て来るのが、「結界を張る」という話です。

例えば講演会やセミナーなどの開始前、会場の四隅と四辺に二礼二拝して八方陣を敷く、さらには上下も合わせて十方陣を敷き結界を張る、といいます。

絶対尊敬で会場を包み込み、「間がささないようにする」といいます。

油断なく、隙なく。


油断が言葉や行動にふと顕れる、あるいは心の隙が言動にうつるのが「間が差す」です。


聞けば叶う〜わもん入門
聞けば叶う〜わもん入門

2014/04/06

わもんな言葉71-一念無想

奥泉光さん『桑潟幸一准教授のスタイリッシュな生活』所収の「盗まれた手紙」の一節。
 猫介のことは忘れよう。桑幸は深く決意し、けれども、そう思えば思うほど脳髄の深い所に猫介は居座った。全身の細胞の一つ一つに「春狂亭猫介」が刻み込まれるような気さえした。DNAレベルで猫介は桑幸に取り憑くかのようであった。

意識的に「忘れる」ことは難しいものです。

覚えることは意識的にできても、忘れることは意識的になかなかできません。


「思い出す」という言葉があります。

何かの拍子に、今まで忘れていたことを思い出す。

ということは、そのとき思い出した事物はどこかしら記憶に残っていたということになります。

思い出すということは、無意識下にあった記憶が意識上に上ってきたと捉えることができます。

忘れるということは、意識上から無意識下に押し込めることとなります。

「押し込める」と書くと、これはもともと意識的に行う動作なので、無意識的に行なうことは難しい。

だから、意識的に忘れることは難しいものです。


「我を忘れる」という言葉があります。

何かに夢中になる、という意味です。

我を忘れるには、我ではない他の何かに夢中になることです。

我を忘れようと、我に固執すると、我に返ってしまいます。


忘我。離我。

話し手の話に一念無想。


桑潟幸一准教授のスタイリッシュな生活 (文春文庫)
桑潟幸一准教授のスタイリッシュな生活 (文春文庫)

聞けば叶う〜わもん入門
聞けば叶う〜わもん入門

2014/03/20

わもんな言葉70-わもん花縁

先日、「わもん花縁」に参加しました。

副題は「輝くあなたに出逢うフラワーセラピー」

わもん仲間のみかちゃんが講師です。


普段、花を愛でることもなく、こんな機会でもなければ一生、生け花をすることもなかったと思います。


さて、わもんと生け花の関係は何か、と考えているとき、多田道太郎『しぐさの日本文化』所収の「いけばな」と題されたエッセイを読みました。

その一節。
いけばなは、日本人の身振りの転換したものである。異論があるかもしれないが、私はそう思っている。床の間のいけばなを見ると、私はそれをいけた女性の、ふだんは表現しようと思っても表現できない微妙な彼女のしぐさをそこに見るのである。あるいはそこに「読む」のである。
女性に限らず男性でも、普段は表現しないできないしぐさはあります。

そういったしぐさを生け花という目に見えるかたちに託してみる。

そして生け花を見る人は、生けた人のしぐさをそこに見ます。

あるいは読みます。


また、同書所収の「つながり」というエッセイには、以下の文章もあります。
いけばなは人と人をつなぐ。これが私の考えである。女は物言わぬがよし、と古来されてきている。その物言わぬ存在が、いけばなに自らを託すことによって、人と人とをつなぐ強力な媒体となりうる。物言う客と主人とをつなぐことで、物言う人びとよりも、もっと意味深いことを言う、そういう存在になる。

「わもん花縁」参加後、参加メンバーで話をするなかで、「『壁打ちわもん』だね」という共通する意見がありました。

生け花が壁となり、生けた人と見る人をつなぐ。

あるいは、生けた人と自分をつなぐ。


『しぐさの日本文化』の中では、「しぐさ」とは「抑制のきいたゼスチャア」「舞台の上での身振り」としています。

壁打ちわもんをするときには、普段の自分を抑制した話し方をします。

生け花にも聞き方のコツがあるように思います。


そして、生け花を媒介として、生けた自分と輝く自分が出逢ったとき、その生け花も輝いているような気がしてなりません。


しぐさの日本文化 (講談社学術文庫)
しぐさの日本文化 (講談社学術文庫)

聞けば叶う〜わもん入門
聞けば叶う〜わもん入門

2014/03/14

わもんな言葉69-人が走り出す

以前より「『(ら)れる』のコーチング論」ということを考えています。

やぶちゃんに出会う前からです。

このブログの未完了記事のひとつ(^-^;)

今思うと、言語の中の「離我」を捉えようという試みだったと思います。


「『(ら)れる』のコーチング論」というのを大まかに言うと、日本語の助動詞「(ら)れる」の4つの意味「受身」「可能」「尊敬」「自発」を統一的に扱えないか、そして、その統一的な構造をコーチングに応用できないか、というものです。

冒頭でも述べましたが、今のところ未完です。


そんな中で、「わもん」のことを知り、「離我」という言葉を知りました。

そして、最近、以下の文言がヤブログにアップされました。
『やぶちゃんのSNS(そう・なれば・すごい)』
■人を動かす→人が動き出す→人が走り出す

ここに表現されていることと「『(ら)れる』のコーチング論」はつながっているのですが、まだ人に上手くは説明できない状態です。

以下、「『(ら)れる』のコーチング論」のことは脇に置いて、「人を動かす→人が動き出す→人が走り出す」を見ていきたいと思います。


「人を動かす」「人が動き出す」「人が走り出す」。

最初の「人を動かす」と、後の2つ「人が動き出す」「人が走り出す」は、主語が異なります。

「人が動き出す」「人が走り出す」では、主語は「人」です。

「動き出す」「走り出す」のは、主語である「人」。


一方「人を動かす」では、主語は省略されていますが、「動かす」のは文中に現れている「人」ではありません。

「(私が)人を動かす」「(誰かが)人を動かす」です。

主語を「私」としたとき、「私が人を動かす」となります。


「私」が離れて、「人」が主役になることで、「人が動き出す」「人が走り出す」。


「『(ら)れる』のコーチング論」で考えていることは、ここの仕組みです。


(興味がある方は以下もご参照ください)



聞けば叶う〜わもん入門
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