「言葉」という言葉が好きだ。
「葉」という漢字からの連想なのか、何となく軽くやわらかく、そして生きている感じがする。日本語だから当たり前のことかもしれないが、日本的な言葉だとも思う。
web上の和英辞典で「言葉」を引いてみると、「speech」「word」「language」の3語が載っていた。しかし私にとっては、どれも「言葉」という言葉にしっくりとくる単語ではない。
「speech」は「speak」とも関係があり、「話」や「発言」という意味が強い。口から発せられた音声としての言葉が意味の中心である。「言葉」には音声も文字も含まれているだろうが、「speech」は話し言葉に限定される気がする。
また「word」は、「単語」もしくは「語」という文字がふさわしく思う。「話す」というのが原義だと手元の英和辞典には書いてあった。私は英語話者ではないので微妙なニュアンスはわからないが「word」はきっちりかっちりとしたイメージがある。英語の文章を書くと単語と単語の間にスペースを入れて書くことになるが、スペースとスペースの間のまとまったものが「word」であり、「words」のように複数形となるように、数えられるものである。日本語では複数の意味を明示的に表現しないせいもあるが、「言葉」は「word」や「単語」のようには数えられない。
「language」は「言語」である。日本語ならば日本語全体あるいは日本語体系という意味合いがあるように思う。
いずれにせよ、先にも書いたが、英語話者ではないので微妙なニュアンスはわからない。また、日本語の単語と英語の単語で一対一に対応していなければならないという理由もない。ソシュールを持ち出す必要もないが、言語は恣意的なものである。
ただ「ことば」の漢字に「葉」を当てたところがいい。
英語では「話す」や「語る」など、人間の活動としての側面が強く感じられる。日本語でも「話」「語」「言語」「言」など似たような言葉はある。しかし「言葉」という言葉は人間の活動とは少し切り離されたところにあるような気がする。
これもweb上で「言葉」の語源を調べてみると、「言(こと)」+「端(は)」の複合語だという。古くは「言語」を表す語は「言(こと)」が一般的であったが、「言(こと)」は「事(こと)」と同じ意味があり、「言(こと)」は事実にもなり得る重い意味を持つようになったため、軽い意味を持たせようと「端(は)」をつけて「ことば」となったと考えられると書いてあった。(語源由来辞典「言葉」)
「事(こと)」の実が「事実」で、「言(こと)」の葉が「言葉」。
同じく語源由来辞典には、「言葉」が残った理由として、『古今和歌集』仮名序の「やまとうたは ひとのこころをたねとして よろづのことの葉とぞなりける」でうまく表現されているとおり、「葉」はたくさんの意味で豊かさを表すためと考えられるとあった。
人間活動というよりは、植物にたとえて表現している。
心を種とし、言の葉が茂り、事の実ができる。
ひょっとすると、「音(ね)」は「根(ね)」かもしれない。心の種から「本音」が出てくる。
またひょっとすると「気(き)」は「木(き)」かもしれない。「気配り」は「木配り」。宮本武蔵も『五輪書』で大工にたとえて書いている。
「言葉」という言葉には、何となく軽くやわらかく、そして生きている感じがする。イメージが育っていく。枯れることもあるかもしれない。
話のタネとして書いてみた。
2016/11/03
2016/08/01
コペルニクス的転回
コペルニクス式超スーパー理論「地動説」!
超、怪しいですね(^-^;)
ここまで怪しいとは思われなかったと思いますが、コペルニクスが「地動説」を唱えた当時の人々も「何を言っているんだ?」と思ったかもしれません。
16世紀当時は「地動説」ではなく「天動説」が優勢でした。
「天動説」は、太陽や星などの天体が地球を中心として回っているという説で「地球中心説」ともいいます。
一方、「地動説」は「太陽中心説」で、太陽の周りを地球が回っているという説です。
天動説優勢の中、コペルニクスは地動説を唱えます。
地動説自体はコペルニクスの独創ではなく古来からあった考え方だったらしく、コペルニクスが再発見したといってもいいでしょう。
ドイツの哲学者カントは、自らの哲学を「コペルニクス的転回」と評しました。
そこから派生して、物事の見方がガラリと変わるようなことを「コペルニクス的転回」と呼ぶようになっています。
コペルニクスやカントのように、科学や哲学の根本的な考え方をガラリと変えることは、めったにないかもしれません。
しかし、視点や考え方を変えることで、同じ事実を見ていても異なる捉え方が可能になります。
解決できない課題や問題をかかえたときは、その前提となる知識や常識を変えてみると、何か新しい発見につながるかもしれません。
超、怪しいですね(^-^;)
コペルニクスの地動説をバナー風にしてみました。 pic.twitter.com/0gFMEOdnkn
— スエヒロ (@numrock) 2015年7月3日
ここまで怪しいとは思われなかったと思いますが、コペルニクスが「地動説」を唱えた当時の人々も「何を言っているんだ?」と思ったかもしれません。
16世紀当時は「地動説」ではなく「天動説」が優勢でした。
「天動説」は、太陽や星などの天体が地球を中心として回っているという説で「地球中心説」ともいいます。
一方、「地動説」は「太陽中心説」で、太陽の周りを地球が回っているという説です。
天動説優勢の中、コペルニクスは地動説を唱えます。
地動説自体はコペルニクスの独創ではなく古来からあった考え方だったらしく、コペルニクスが再発見したといってもいいでしょう。
ドイツの哲学者カントは、自らの哲学を「コペルニクス的転回」と評しました。
そこから派生して、物事の見方がガラリと変わるようなことを「コペルニクス的転回」と呼ぶようになっています。
コペルニクスやカントのように、科学や哲学の根本的な考え方をガラリと変えることは、めったにないかもしれません。
しかし、視点や考え方を変えることで、同じ事実を見ていても異なる捉え方が可能になります。
解決できない課題や問題をかかえたときは、その前提となる知識や常識を変えてみると、何か新しい発見につながるかもしれません。
2016/01/30
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