「通人」とは、もともとは遊里の言葉だったようで、今ではあまり聞くことはない言葉ですが、「事情通」とか、「通なはからい」とかで使われる「通」と同じ意味で、「通な人」のことです。
少し長くなりますが、以下引用します。
情については、「情がわかる」といういい方をしない。そのような語法があっても理解はできるが、「事情がよくわかっている」とかのばあいを除いて、つまり対象化できる場合を除いては、「わかる」とはいわない。それは「通じる」ものである。事情のばあいでも、「事情がわかっている」よりも「事情に通じている」のほうが日本語らしい表現である。「通じる」というのは、「わかる」というのに近いが同じではない。「英語がわかる」というのと「英語に通じている」というのとでは、相当にニュアンスが違う。「通訳」とか「通辞」は、このニュアンスをうまく表わしているいい言葉である。たしかに「事情がわかっている」よりも「事情に通じている」という方が、より深く理解している表現です。
分析して理屈がわかっていて、原理からの演繹ができても、「通じている」とはいえない。細かいニュアンスや裏の意味や雰囲気まで知っているのでなくては、「通じている」とはいえない。ヘーゲルをもじっていえば、「わかっているからといって通じているとはいえない」のである。しかも頭でわかるのではなくて、心でわかる(あえてこの言葉を使うが、本当は心が通じ合うというべきであろう)のでなくてはならない。そのようなわかり方である。いいかえれば、その世界の言葉が全面的にわかることである。わかるは訳なのだ。
その世界の言葉が全面的にわかっている人が「通人」。
「わかる」は「分ける」ことからはじまると考えると、分けた後につなげて道をつけているのが「通じている」という状態なのではないかと思います。
これは、「聞く」ことにも当てはまるのではないか、と感じました。
「相手がわかる」聞き方より、「相手に通じる」聞き方。
「わもん」での聞き方に「通じ」ます。
「わもん」での聞き方の説明で、よく「地下水脈でつながっている」という言葉を使うことがあります。
「つながっている」と「通じている」もつながります。
先の『「分ける」こと「わかる」こと』の引用には、続きがあります。
ここまでくれば、じつは、もう「わかり方」などといったものではなくて、「ふるまい方」のできるのが通人であり、わけしりなのである。「わきまえ」もそうである。原意は「分ける」かも知れないが、「わきまえている」といえば、わかっているとか知っているというだけでなくて、「ふるまいかた」についていわれていると考えたほうがいいのである。「わかり方」ではなく「ふるまい方」ができるのが「通人」。
相手の話を聞くとき、「わかり方」「聞き方」ができるだけでなく、その「在り方」でいられる人が、わもん通な人です。